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法話11 言葉遣いA
本日も先週と同様、仏事で使われる言葉に、まだまだ偏見や誤解を招いているものを取り上げ、お話し申し上げます。

それは皆様もよく使われたり、聞かれたりする語句として「引導(いんどう)を渡す」という仏教用語です。

これは、本来仏教的意味合いからしますと大変すばらしい言葉であり、人々が仏教の教えに導かれ、人間として正しい生活をし、人生悔いなしと生きる道を教え導引いて戴く事なのです。 また、亡くなられた後に儀式として成仏を願う作法が法語と共に扱われ、これを第一儀とする宗派がある事も事実です。

ところが、私達の生活の中で使われているのは、ほとんどが悪い時の意味で使われています。たとえば、相手を殺してしまう時とか、絶対的命令に服従させるとか、更に最終的宣言をするといったように、大変高圧的な使い方がなされています。

ですから、弱い立場に立たされている者は「引導を渡されてしまったよ」とその職務を終わるとき、解雇する時などに使われています。実はこの意味で使われるものは仏教的な見方からしますと、先にもお話した通り全くおかしな話しであり、反対である事に気付いてほしいと思います。

ではここで引導にまつわる事柄で、少し愉快なお話をご紹介いたします。皆様もよくご存じの「一休禅師」と言う大変偉い禅僧の方のお話です。皆様には「一休さん」と親しまれこちらの方が馴染み深いですので「一休さん」お呼びし、お話し申しあげます。

昔、山あいのある村で大変悲しい出来事が起りました。
それは村人達に何時も親しく、また人望の厚い村長さんの死です。村人達もほっておくわけにはいきません。何人かがそれぞれ準備の為の物を持ちながら訪れてきました。

通夜の段取り、葬儀の取りまとめと決まっていきますが、肝心の坊さんがいない事に気づきます。いつもは山奥へ土葬し、長老が何やら訳のわからない事を言って葬儀らしく済ませているのですが、今回はそういう訳にもいかず、施主の息子も困った様子。

すると村人の中から「そうそう、村はずれの一軒家に、大そう偉く名のある坊様が逗留していると聞いたが、確か一休さんといわれ、諸国に仏様の教えを説く旅をしている坊様のようだ。その坊様に一つ頼んではどうかね」という話が持ち上がったのです。息子は一安心、早速そのお坊様をお迎えし、引導を渡してもらいたい願いと、お経をあげて頂きたい宗(むね)の使いを出したのです。

間もなくその一休さんが現れ、「どれどれ亡くなられた父上はどちらかな」と尋ねながら息子に案内され、枕元に座りました。

しばらくの間座ったまま動こうともせずじっと白布のかかったお顔を見ているだけ、そして何を思ったのか、白布を取りながら息子に
「おい、この家には金槌(かなづち)はないか」と尋ねる一休さん。

息子は偉い方の申し出なので何とも思わずすぐに言われた通り金槌を渡すのです。そろそろ父に引導を渡してくれるのかと思うのですが、はてこの金槌は何の為に使うのだろうと考えているいる時、いきなり一休さんは亡き父の額めがけて、ゴンゴンと打ち出し、回りの村人もびっくり、一番驚いたのは息子。
「一休さん何をするんですか、大切な父の顔に」
と怒る息子に、
「父上は死んでおる確かに死んでおるわ、死んでおるものに引導渡す必要なし」と一喝(いっかつ)。

そして、静かに何事もなかったように読経を始めたのでした。
その一部始終を見ていた村人も、もちろん息子も仏様の教えに耳を傾けていくようになったという話です。

いかがでしたか。引導を渡すと言う事は最初にも申しました通り、仏道修行の引き金になる説法やお言葉を聞くことにあるのです。

しかし、私達の現代社会を見回します時、本当の意味で引導を渡さなければならない方々が多いとおもいます。心が失われ、物欲ばかりが先行し、精神的な喜びがないままに時間だけは過ぎていきます。無駄な時は過ごせないはずです。せっかく人間に生まれてきたのですから、他の動物には引導を渡せません。人間だからこそ、この意味を理解する事ができるのです。これからも本当に生きている間に引導を渡して戴きたいものです。   (平成10年6月17日放送)

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法話12 言葉遣いB
数回に渡りお話し申しあげてしました仏事の時使われる言葉としてどれ程相手に対し、失礼なものであったか、また仏様の教えとまったく関係ない意味で使われているかお話ししてきました。今週も心ないものと思わざるを得ない言葉が伝えられ、反省すると同時に、改めていくお話です。

さて、これらの言葉は決して悪意からのものではなく、ただ意味を知られないまま口うつしの言葉であったことはわかります。しかし世の人々は、言葉の常識として使い、本来ある意味が理解されないまま伝ってきたところに問題があると考えられます。

それでは今週が言葉のシリーズ編最後になりますが、皆様と一緒に考えていきたいと思います。

まず「ご愁傷様」ですが、何ともむごいひびきを感じます。何故なら大切な方を亡くし心は悲しみで一杯のはずなのです。

にもかかわらず、実は追いうちをかける言葉なのです。「愁」と言う字は「うれい」と読み「悲しみ」とか「思い悩む」とか、もっと深いものでは「物さびしさを感じて心が沈む」とあります。そして「愁」は「いたむ」あるいは「きず」と読み、心の問題では「悲しく苦しい思いをする」とあります。このような意味を持っている言葉を、私達は、おくやみの表現で、何の疑問をいだかず相手に伝えているのです。

もちろん、同情や、悲しい事ですとの心は含んでいるでしょうが、考え方によってはこの言葉が傷ついている心にもっと傷つけてしまっているように思えるのです。

ですから、弔意を表わし、おなぐさめする言葉としては、「おさびしくなりましたが早くお元気になって下さい。○○様はいつも見守っていますよ」と素直な表現でいいのではないでしょうか。ようするに、元気付けたり勇気を与えるような言葉に変換される事を望みます。

次に「未亡人」ですが、辞典によりますと「ご主人を亡くされ再婚していない婦人」とあります。現代社会にあっては死語になりつつあると思われますが、まだまだ使われていると知っておく事も大切でしょう。

では何故この言葉が問題なのか、そのまま読みますと「いまだなくならざる人」と読めるからです。「早くあなたも死になさい」と読みようによっては、そう言えるからです。ではこの言葉に値するものとしてどのような言い方がふさわしいかと申しますと、実際これに変わる言葉はなかなかみつけにくいのですが、あえて申し上げるならば、普通の言い方で「ご主人を亡くされた方」あるいは「再婚せず一人身で頑張っている方」等々がよろしいかと思います。

いかがでしたか。今週の言葉はあくまでも私が聞いてきたまのの中で疑問を持ち続けていた言葉に一考を投じてみました。普段何気なく使われている言葉に耳を傾けてみますと、おやっと思うものがまだまだあるはずです。

仏事で使われる言葉は、本来の意味が思いやりのあるもので、亡くなられた事実を、残された方がしっかり受け止める心の表れに、言葉としての表現であったはずです。

しかし、現代は宗教情操の欠如がこれ程までに儀式的宗教にとどまり、心が全く感じられない事は残念でなりません。

私達の回りを見ます時、現代人と称している人々の傾向として、無宗教であることが何か誇らしげに写っています。それが高い教育を受けられ、知識階級と自称している方々に多いようです。

しかし、政治、経済、文化等々の面で今ある貴男が国際舞台に立たれる時、無宗教であると言う事だけで信用されない事実を知っているでしょうか。 好むと好まざると関係なく私達の社会生活の中ではいずれかの宗教が介在し、その時にあたり正しい方向へ示す努力をおしまず、頭から否定するのではなく今一度心の中をのぞいてみる事をお勧めいたします。

人間として生きていく以上苦しい事や悲しい事の多い世の中で共に喜び励ましあえる世界の実現をめざしているのが本当の宗教であり仏教の教えなのです。   (平成10年6月24日放送)

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法話13 お数珠
早いもので、4月から始まりましたこの番組も3カ月が過ぎその間、シリーズものとして、葬儀にまつわる俗習、迷信、しきたりなどのお話や、ゴロ合わせ的忌言葉の間違いを正してきました。

皆様にとりまして、それらの思い違いに気付き、なるほどとうなづく事ができるようになりましたでしょうか。こだわりや昔からという伝承だけで、仏様と向かい合っていた行為が、亡き方をおとしめ、あるいは経済的な分野にまで影響を及ぼしていた事に改めようとする心が動いたでしょうか。

しかし、なかなか難しいものです。永年培われてきたしきたりや風習をすぐに止める事などできないと思います。ですから、すぐにとは申しません。一つ一つで結構ですので、その折に正しい方向へ今一度考え直すことをお勧め致します。

さて、これからのお話は、シリーズ的にとは申せませんが、知っておくと便利ですよと、仏事の常識編とでもしてみたいと思います。

本日は、まず何をおいても、最も身近な法具である「数珠」についてお話し申し上げます。

そこで、何故数珠を持つのか、あるいは形式、かけ方など宗派によっていろいろありますが、この数珠については諸説があり、また、珠の数についても違いますが、基本的には百八個の珠でできています。そして広く煩悩の数を表わしているという事は皆様の知るところです。

さらに、念仏を何回唱えたかと、一声ごとに一玉くって、数える時に用いたので「念珠」とも言われています。ここではそういう形式的なものではなしに、諸説の中で、心に感じ、お数珠を持つ事の意味を考えるお話を申し上げたいと思います。

ではまず何故百八つなのか、この数は皆様が一番よく知っている数字ですのでこの辺から申します。 まず、私達の世界は東西南北上下の世界観を持っています。その世界に休むことなく煩悩が働き、この煩悩に支配される人生を送っています。

煩悩とはむさぼる心、要するに「あれやこれやほしいという欲望」「それが満たされないと腹を立てる心」「そのあと後悔する心」即ち「貪欲(どんよく)」「真意」「愚痴(ぐち)」の三つを言い、この心がまず六つの世界に働き、六かけ三で十八。これが過去、現在、未来に関わり五十四。そして昼、夜があって百八と計算されています。

こう考えてみますと私達は本当にたえまなく煩悩を持ち、不平不満ばかり言い、すぐに腹を立て、自制心のない日々を過ごしているのです。

実は、この数珠がこれらの心を表し、一つ一つの玉となっていると私達に教えているのです。ですから、数珠を持つという事は、自らの煩悩を断つ事ではなく、煩悩だらけの日暮しをしている自分に気付き、あるいは気付かされ、我慢をしていく自分に目覚める為の法具なのです。

つまり仏事の時も、普段の時も欠かせないものであり、常に身に付ける必要はありませんが、せめてお仏壇に参る時、葬儀に参列する時ぐらいは、必ず持つ事を心掛けて戴きたいと思います。そして、これ程までに大切な意味があるにもかかわらず、知らされないままでいた私達は、今後持つ意味の深さを知る事で仏様からのお心を戴く事ができるのです。

最近の仏事では、法事に限らず葬儀などにも数珠を持たずに参列されている方の多い事に驚きます。身なりだけは黒い礼服を着、女性の方はその上に真珠のネックレスを巻き、これが仏事の常識と言わんばかりに服装を整えていますが、本当はそんな決まりはないのです。むしろ服装に気配りするのではなしに、お数珠こそ忘れてはならないものと心得る事が肝心なのです。

如何でしたか。先にも申しました通り、宗派によっては数珠の考え方や形式も多少の違いはありますが、菩提寺のご住職とよく相談して自分に合ったお数珠を持つように努めたいものです。   (平成10年7月1日放送)

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法話14 お盆
本日はお盆が近づいてきましたので、お盆の迎え方についてお話し申し上げます。

まず「お盆」とは、仏説「盂蘭盆経」という経典に説かれている物語から伝えられています。

それは、お釈迦様在世の時代、数多いお弟子さん達の中で十番弟子に位置していた目蓮尊者と言うお坊さんと、その方のお母さんにまつわるお話から由来しているのです。

ある時自分の母親の行き先を、修行によって得た神通力を使い透視したら、餓鬼道に落ちている母親を見つけました。そのやせ衰えた母の姿を見て、食べ物を与えようとするのですが、母の口に入る前に焼かれて灰になり食べることができません。そんな母の苦しみを見て、目蓮さんは大変悲しみ、お釈迦様にすがり、母の苦しみを救おうとするのです。しかしお母さんの罪は重く、その作られた罪が実は自分の責任と知るのです。

それは、目蓮さんが幼少の頃、母親の気持が、なりふり構わず愛情を注ぎ、しれが溺愛と言う盲目的な愛で、すぎてはいけない罪となり、母親を餓鬼道に落してしまう種になったのだとお釈迦様から悟らされたのです。そこで如何ともしがたい事と知り、再度お釈迦様におすがりしたのでした。

すると、一つだけ救いの方法があるとの事、それはインド中の修行僧が春から夏にかけ修行をするが、その修行最後の日、七月十五日に僧侶に対し食べ物を供え共に読経せよと悟され、目蓮さんはその日を待って教えの通りいたしました。すると、母の苦しみが解け、めでたく極楽へ迎えられたという内容なのです。

盂蘭盆と言う言葉は、インドから中国に渡り翻訳され、その漢字が日本へ伝えられてから「盆」だけが使われるようになりましたが、元はサンスクリット語の「ウランバナ」即ち「逆さま」「苦しみ」という語元であり、死後の世界における苦痛を救うという事なのです。

しかし、この経典からは当時、生活力のない僧侶を援助する為に創作された説がありますが、そんな説より、足るを知らない行為が餓鬼の世界に落ちてしまいますよと現代生活にはない我慢をするという大切な教えを守る事に本来の意義を見い出されるのではないでしょうか。

そして、翻訳された経典は中国の道教にとり入れられ、先祖崇拝を第一義とする教えの元で、あらたに灯籠、提灯などの飾りものが加えられ、盆が終るとご先祖様の世界へ帰られるとして船を用意したりする風習が生まれました。

日本では推古天皇の時代、盆法要を行ったのが初めてとされていますが、仏教行事としては、空海がもたらした密教思想にある施餓鬼思想と重なり、真言宗で広まり、やがて各宗派の間でも行われるようになりました。

さて、この様に歴史的事実も大切ですが、一般の人々がお盆を行うようになったのは人々の生活が安定した江戸時代からと言えるでしょう。

それは、各地の土俗信仰と一緒になり独特な迎え方をし、風習、俗習、しきたりの中で行われ現代に至っていると言えるでしょう。中でも、日本固有信仰の「七夕」は、棚にもうけられた「機」によって神がやってくるのを待ち、一夜を神につかえて過ごす聖なる乙女の信仰があり、中国伝説の「七夕」と入り混じり、同じ時期に行われる事から、各地でお盆の一環行事にしている地方もあります。有名なものでは、青森の「ねぶた祭り」など代表的な行事と言えるでしょう。こうして日本のお盆は、仏教的な施餓鬼思想と中国から伝えられた風習が習合し本来の意味が見失われたまま迎えられているのです。

日本のお話はそれぞれの行事を否定するのではなく、日本の風物詩として伝承される事には何ら異議を申し立てるものではありません。

しかし、現在お迎えするお盆はあくまでも仏教行事の信仰心として、ご提案させて頂きたいと思います。即ち、お仏壇はいつもより丁寧にお掃除し、お供物もご先祖様から頂戴する物としてご家族の好きな物をお供えし、匂いの良い香をたむけ、お花も美しい生花を用意され、心持ちは普段より深く感謝の心でお参りされる事をお勧め致します。

今、皆様は何か物足りなさを感じられたと思いますが、盆灯籠、提灯、きゅうるやなすで型どられた牛や馬は不必要なのです。にもかかわらず伝承事に振り回され、大切な仏事である事を忘れています。ですから何もこだわる必要もなければ、迎え火、送り火もやらなければならないという心でなく、先程も申し上げました通り風物詩程度の思いでよろしのではないでしょうか。要するに無理にいろいろ準備する事もないわけです。

如何でしょう。仏教の教えはいきている私達がどう生きて行くかの道を教えています。ですから現代社会には無駄と知ればそれを改めて行く事も心を開く確かな道と感じお盆をお迎え致しましょう。   (平成10年7月8日放送)

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法話15 お香
本日は、どうしても仏事に欠くことのできないものとして、お香を取り上げ、お話申し上げたいと思います。

さて、この香についてですが、かなり多くの方々が誤解をしているようです。

香は六世紀、仏教と共に伝来致しました。
日本へ渡って来てから、仏前を清める為に供香として用いられ、後に宮廷の間で衣類につけたり、遊びの対象としての匂い当てゲームに変化していきました。

室町時代には公家の中で行われ、香の催しものが民間にも広まり香道としての作法が確立されたのです。その後、元禄時代を中心に、茶道や華道と並んで、武家社会に繁栄しましたが、香木や、その為の道具が、かなり高価なもので、実生活になじまず、香道だけは衰退していったのです。

以上のように香についての歴史は大変優雅なものであり、一般の人々には到底手に入らず、わずかな人々の間で受け継がれてきました。

そこで現代社会に目を向けてみますと香の考え方は、仏前に香をたくとか、お線香を供えるとかいいますが、歴史的意味合いから時代背景も考え合わせ、少し違う事のように感じます。では、この違いをどう説明致しますかということです。

それは、仏様のお教えが書かれているお経の中に見ることができます。そのお経とは、阿弥陀経なのですが、仏様の世界が描かれ、まず黄金の大地から始まり、とてつもなく大きな池があり、水面には大車輪のような蓮の華が咲き、池の底は金の砂がひかれ、池のほとりに建つ宮殿には、金や銀、瑠璃(るり)瑪瑙(めのう)でできている楼閣があり、あたりは華が咲き乱れ、何千種類の美しい鳥たちが美しいハーモニーをかもしながら優雅に響かせ、何とも形容しがたい芳(かぐわ)しい香が漂(ただよ)っている、と説かれているのです。

そこで申し上げたいのは、歴史的意味としての香ならば問題はないのですが、今皆様が考えたり行ったりする焼香の思いとは、香道の香とは何ら関係ないものとなり、現代社会には、このままですと意味のないものになります。

しかし、お経に説かれている意味から致しまして発想の転換をはかるならば、大切な行為であると言えるのではないでしょうか。

何故ならば、仏事の時扱う香は、このお経を重視しているからです。即ち、ご先祖様がいらしゃる仏様の国と、私達の住む世界を対比した時、何とも清らかで美しい国と、不浄で濁(にご)りきった世界を同等に考える事はできません。

そこで、せめて香をたく事で仏様の御前に出るにあたり、体臭を消し、身体を清浄(しょうじょう)にし、更に敬虔(けいけん)で厳(おごそ)かな気分となり、よこしまな心を打ち払って、少しでも仏様の国に近づいてからお参りさせて戴くと言う行為になるのです。

ですから香をたく、あるいは焼香すると言うことは、現代社会に於いて仏事の時、先祖供養の儀式のように受け取られているのは残念です。この誤った常識を改める意味として、歴史的香も結構ですが、あくまでも、浄化された自己の身体と心を仏様に献げ感謝するものと心得たいものです。

このように香を考えて見ますと、回数や本数にこだわる必要のない事に気付かされます。

更に申し上げれば、一般的に扱われている線香は香をたいている時間を一層長く保つ為、工夫されたまので扱いやすさも手伝い家庭に普及しています。

よく「抹香(まっこう)くさい」と言って、仏様の話しをしだすと、馬鹿にしたり仏教を否定するかの如くにこの言葉が使われていますが、とんでもない事です。それは一般の仏事に使われている香があまりにも品質の良くない物であるからで、不快な香りの匂いとが結びつけられてしまったからでしょう。

先程申し上げました通り、香は自分自身の浄化に扱うのですから、できるだけ良いものを選び、たく事をお勧め致します。ようするに粉でできている香も、線香も同じ香ですから立てる必要もなく、長くて香炉に入らなければ短く折ってそのまま横にすれば良いのです。又、よく見る光景ですが、わざわざ香を額の近くまで持っていき押戴くような行為も全く無意味なのです。

如何でしたか。香は本来たく事にその意味が見い出され、仏前にあっては感謝であり、私達の世界では心を穏やかにする事と知らされました。どうぞ芳しい香をたいて下さい。   (平成10年7月15日放送)

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法話16 お花
先週はお香について申し上げました。お香ときたら、やはり次はお花と仏事に欠かせないものの一つです。

では、この花についてですが、本来は仏前に花を供えることから起こったものであり、現在でも奈良の薬師寺では新年の行事として、薬師三尊に供える儀式を行っています。

また、仏教が起りましたインドでは華籠と言う皿に花びらだけを盛り上げ仏前に供える事が今の時代まで伝わっています。

日本では、鎌倉時代に入ると花瓶にさし、家の中の飾り物となり、少しずつ宗教的な色合いが薄れてしまい、鑑賞的な意味合いが強くなっていきました。室町時代以降は、室内装飾に向い、花を立てることを専門とする名人が現われ、これが後に華道として確立されました。その後、精神的な心を求め、仏道修行と同じように作法が定まり、江戸時代には「生け花」、明治時代には「盛花」、大正時代には「自由花」、そして昭和に入って「前衛」が現れ、それぞれ各流派に添った作法で現代まで伝えられています。

こうして花の歴史も香の歴史も、元々は仏様に献げる意味合いが強く、対象を尊ぶ行為として現代でも花束を差し上げるよい習慣になっていることはご存じの通りです。

さらに現代社会では、美しい花を見ることにより、心の安定をはかり、やすらぎを与えてくれる物と扱われ、情操教育にも必要な道具として用いられているのはどなたも知るところです。

このように、お花は社会生活の中で人間関係を円滑に進める為、重要な役割を持ちながら、なぜか仏教行事になりますと俗習や風習に惑わされ、本来の心を見失っています。

それはご存じの通り、仏事には「しきみ」神道には「榊(さかき)」が世の中の常識と伝えられ、家庭のお仏壇もしきみが上げられています。特に墓へ行きますと、99%がしきみで生花はめ珍しい事です。そして、物知り顔の方が「そんな事も知らないの」と常識ぶる会話を聞くことがあります。

では、なぜ仏事イコール「しきみ」になったのでしょう。それは、元々日本では人が亡くなりますと、山奥へ土葬してきました。ところが土葬ですと山の小動物達が墓を掘ってしまい、一晩中番をすることもできず、そこで生まれた生活の知恵が、この墓にしきみを敷き詰める事だったのです。

しきみは有害植物で、小動物から墓を守ることができると古老の智慧が俗習、風習になり、現代まで何の疑問も持たれず伝承されてきたのです。ですから、仏事には全てがしきみと誤った言い伝えが先行し、生花が使われなくなったのです。どうでしょうか、今一度考えを改めて先程のお話に気づかれましたので、本来の姿へ戻り是非「生花」が大切であると実行に移しましょう。

次に「いろは歌」が生花にまつわる仏教思想そのものを表わしてお話をいたします。

まず、「色はにほえど散りぬるを」、これは、今日咲き誇っている花もやがて散りますよ。このように人間も年老いて行きますよ。要するに「諸行無常」を表わし、「わが世誰ぞ常ならむ」。これは、私達の世は止まっている事はありません。常に変化しています。即ち「是正滅法」です。

次に「有為の奥山けふ超えて」。ですが、有為とは私達娑婆世界、これに対して「無為」が仏様の世界、ようするに、人生山あり谷あり、しかし何とか乗り越えてきた、即ち「生滅滅己(しょうめつめつい)」。

最後に、「浅き夢みじ酔ひもせず」ですが、私の人生、自分なりに過ごして来ましたが、あっと言う間でした。まるで夢のようです。ですから酔っている暇なんかないですよ。即ち「寂滅為楽(じゃくめついらく)」ですと、花は私達に語りかけています。

いかがでしたか。結論を申し上げますと、仏事には、先程提案致しました通り「生花」がよろしいので、これからは俗習、風習に惑わされずにしたいものです。

また、花は仏様の慈悲を表すものとして扱われ、花から学ぶ無常感を受け取りたいものです。ですから我が人生がしおれないよう日々、明るく元気に過ごす事に心掛け、感謝の供花(そなえばな)にいたしましょう。   (平成10年7月22日放送)

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法話17 正座・表服
さて、先日お寺へファクスが届いておりました。

匿名希望という事ですのでAさんといたしましょう。そのAさんからの質問で「お寺へ行くと必ず正座をしなければなりませんがどうしたらよいのでしょう。また、服装については?」という内容です。

読み終えた後「これは参ったな」と正直思い、普段このような事は考えてもみなかったので「はて」どうお答えすればよいかと大変困っています。

しかし、Aさんは真剣に解答をお求めの様子ですので、私の主観ではお答えする事をお許し戴ければありがたい事です。

確かにご葬儀や法事で長い間正座をしていますと足がしびれ、お焼香に行かなければならない時立てずに困っている姿や、すくっと立ったまではよかったのですが、大きな音をたて転んでしまう光景を目にすることがあります。皆さんは神妙な心持ちで参列しているのに、突然の大きな音、また、ご本人は焦って立とうとしますがなかなか立つ事ができません。それでもやっとの思いで立った後、足は鳥のようになり、爪先を畳につけ、引きずるように歩く姿はあわれとしか言いようがありません。しかもその姿を見ている人々は思わず吹き出してしまいます。このような状況になりますと通夜や葬儀どころではありません。更に笑いをこらえようとするお隣同志、また思い出し笑いさえ出てしまうようになりますと、本当に正座は困ったものです。

では、あぐらをかいてしまえばいいじゃないですか。そうです、正座をしなければならない事が世の常識として通り、思ってもみなかった結果が生じます。本当に大切なのは今、私はどの様なお参りをしているかということでしょう。仏様の教えは物事にこだわらず、人生如何に生くべきかを説いているのです。

確かに常識の世界では、いろいろな場面によって、こうあるべきだ、こうするものだと、決め付け、本来の目的が達せられない事が多いようです。

日本人の心は、いわゆる昔から謙虚の美徳を重んじてきました。それは大切な生活の知恵とも言えるでしょう。しかし、これもあまり過ぎると「いやみ」として写り、自分を否定してしまう事になりかねません。要するに、その状況の持つ意味を把握し、正座であろうと、あぐらをかこうと、心からおつとめに参列し、自分自身の心を見つめる事の方が大切なのです。

皆様ご存知のお釈迦様は、心を統一する為のご修行を相当長い間されました。そしてお亡くなりになる時描かれた物は、ゴロンと横になっています。これは仏教で『涅槃図(ねはんず)』として伝えられていますが、ただ寝ているのではなく、どんな時でも、どんな姿でも心を統一する状態にあったとされているのです。

ところで私達はお釈迦様と比べる事はできませんが、せめて仏事の時やお寺参りの時くらいは、こだわりから離れ、日頃の生活を思い起こし、自分の歩んでいる道が、間違いないか反省する場を与えられたのだろ感ずる事もよろしいのではないでしょうか。

それでは次に、姿のこだわりをもう一つ。どうして仏事は黒一色なのでしょう。喪服についてのお話です。

世界的に弔意を表わす色は黒として慣例になっていますが、あくまでも慣例であって、一般の方々は派手にならず清楚なものならば基本的には自由な服装でいいのです。本来の喪と言う意味は、お身内の方が謂って一定期間喪意を表す為に身につけていたものです。それが現在は、やれブラックスーツだ、黒紋付の羽織だと、女性には、黒のシルクかウールのワンピース等々、何故決め付けなければならないのでしょう。従いまして、本来の目的意識をはっきりさせた上で世の中に流されるのではない所に常識の常識たる由縁があるにではないでしょうか。

仏事に於いては特にご住職と相談し、宗派によっては厳格な姿勢で臨まなければならない事もあるでしょうし、逆に自由なお心でどうぞと言われるご住職もいらっしゃるでしょう。ようするに、守らなければならないのは、その行為を施行する側に課せられている作法や服装であり、何等皆様に於いては気になさる程の事もないのです。

如何でしたか。質問のお答えになったでしょうか。

私自身もお答えしながら考えさせて戴きましたが、慣れてしまう事に落とし穴があるのだと知らされた事です。正座をする事もあぐらをかく事も、また服装についても、時と場所と目的をはっきりさせ、貴方自身にとって今何が重要なのかよく考える事をお勧めいたします。最後に一言、お数珠を必ず持ってお参り致しましょう。これが私のこだわりです。   (平成10年7月29日放送)

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法話20 精進落し
今週は、一旦くぐった後、お寺ではどのような仏道修行が待っているか。また、その修行が世の人々にどう写っているかお話し申し上げたいと思いますが、専門的な事はお坊さん方におまかせし、本日はそこで行われている修行の言葉が、皆様に誤解され、一般に広まっている、皆様も良くご存じの「精進」についてお話しをいたします。

特によく使われているものが「精進落し」という言葉です。
ここで使われている意味は、ほとんどの方が、悲しみ事の後、早く心を回復し平常に戻ると言った意味で使われていますが、本来は皆様が考えている事と全く正反対の意味なのです。

本当は生活の中で欠かせない大切な行為が、いつの時代からか分かりませんが否定的な意味合いとして広まっている事は非常に残念でなりません。

そもそも精進とは、ひたすら善い行ないをし、悪を断って歩んで行くという意味なのです。ですから僧籍を持つ者は、おおげさに言えば不眠不休で仏道修行に励むわけです。

さらに、もう少し詳しく申し上げますと、身体的な力をもってする精進を「心精進」と言いまして、徳を得て健康的な活動ができる精進は「身」であり、どんな事にも動ぜず、平常心を保つ智慧の精進が「心」であると説かれています。

そして、この仏教語が一般世間に広まり、心身を慎み、酒や肉を断つ事が精進と受け止められ、信仰生活の中で大切な位置付けをする意味として広まったのでしょう。

また、その事と呼応して、当時、在家信者と坊さんが、特定の日に集まり、仏教の理解を通して、信心の在り方や持ち方を確認しあう習慣が生まれました。そして、その日だけは、不殺生(ふせっしょう)戒という大切な戒律をきちんと守る日であった為、料理は決して肉類を使わず、全て野菜類だけで食事をしたのです。これが精進料理の始まりといえるでしょう。

こうして広まった、精進の意味は、心身の精進が薄れていき、最近では、精進と言うともっぱら口にすると事だけが先行してしまい、ご葬儀の後、一応仏教儀式が終わった、やれやれと言う事で、精進落しと、もっともらしくこの言葉を使い、さあ何を食べてもよいのだと、食事の宴が催されています。ちなみにお通夜の後も、結構なおふるまいをして、お寿司や鳥肉で食事をしている姿は何とも言い難いものを感じます。

実は、両方ともおかしな話で、本来は、四十九日を迎えるまで喪に服し、本当の意味で心身の精進をしなければならないのに、現実はこの有様です。ようするに精進もそれにまつわる精進料理も、意味が分からないまま、とんでもない行為をしていたのです。

しかし、今となってはこのしきたりや、習慣を止めるのはなかなか難しい問題です。ある意味では地域の方々とのコミニュケーションの時間として必要なのかもしれません。

そこで提案させて戴きますが、今さら肉を出すな、刺身を出すなと言っても無理ならば、口の精進ではなしに、せめて心の精進をなさったら如何なものでしょう。

たとえば、晩酌をしていた方は、四十九日間これを断つとか、たばこを百日間断つとか、あるいは何等かの方法で規則正しい生活のリズムで四十九日間位は過ごしてみるとか、ようするに自分自身の生活を振り返り、今までの自分ではない自覚で生活する、私の精進としてはどうでしょうか。

ですから、落してはいけないものであり、四十九日だからと、精進明けだ等と言って元の自分に戻ってはいけないのです。しかし、欲から離れる事はできません。小出しにできる自分自身を磨き、常に精進を忘れず人生を送って行く事をお勧めいたします。これからは貴方自身の問題ですから頑張ってみましょう。   (平成10年8月5日放送)

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