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法話61 持戒行
そろそろ梅雨の時季に入りますが、波羅蜜の実践活動で、じめじめした心を吹き飛ばしてください。

さて、前回まで一応六波羅蜜の第一番目として、布施行の話が終りました。そこで本日は、第二の「持戒」についてお話を進めて行きたいところですが、このお話は、以前に戒律と言う事柄の中ですでにお話し申し上げました。ですから、復習の意味もこめまして、皆様にはお聞き下さいますようお願いいたします。

では、早速この「持戒」についてですが、普通に読みますと「戒(かい)を持つ」ということです。

簡単に言えば、戒の字は「いましめる」と言う事ですので、自分自身の心の中にいつも「いましめ」の気持ちを忘れないということでしょう。

そして、もっとやさしく言うならば「約束を守る」ということなのです。確かに私達の世の中には、人間関係を保つ為や、社会的責任者として守らなければならない道徳や倫理があります。

さらに、憲法という国で定められた約束事があります。これを破れば、厳しい罰則が与えられ、人間社会から、共同生活を止めてもらわなければならない事態になることは皆様のよく知る所です。

これらは、あくまでも、対社会生活における「いましめ」としてであり、ここでお話している「持戒」とは、自分自身の上に、人間として、これだけはと、守らなければならない約束をお釈迦様が説いて下さっているのです。

この約束を守る事によって、人間としての行き方が、悪い方向か決定されるのです。即ち五つの「いましめ」を私達の為に説き、一人一人が、お互いに保つ様、努めれば、この世の中は大変すばらしい世界が実現すると、断言して下さっているのです。

その五つとは、前にもお話しいたしました通り、第一に全てのものを殺してはならない「不殺生(せっしょう)戒」、第二に男女間におけるよこしまな心を起してはならない「不邪淫(じゃいん)戒」、第三に物質的な事も、精神的な事も盗んではならない「不偸盗(ちゅうとう)戒」、第四にウソを言ったり、騙したりしてはならない「不妄語(もうご)戒」、最後に五つ目として、むやみに酒を飲んだり、むさぼり食べたりしてはならない「不飲酒(おんじゅ)戒」がありました。

以上五つを、確実に守ることによって、本当の人間社会が実現されるのですと、説かれているのです。しかし、これらの戒律を守ることは、なかなか難しいので、自制する心を持ちながら生活する事が望ましいと、お話してきたとおりです。

次に先にもお話しいたしました五戒のほか、さらに三つの戒律が定められていることもお話し申しあげます。

それは、まず「不香油塗身(ふこうゆずしん)戒」といいまして、女性の方にはちょっと言いにくいことですが、ベタベタと厚化粧をしたり、むやみやたらと香水をふりかけている女性、また男性にしても、必要以上に髪毛に油をぬっている方を見かけますが、このような行為は、つつしみなさいという「いましめ」です。

次に「不歌舞観聴(ふかぶかんちょう)戒」といいまして、これまた、世の中では、きらわれているものの一つでもある。自分だけの世界に入ってしまう「カラオケ三昧」を自重しなさいということです。

お釈迦様在世の頃、「カラオケ」があったかどうかは疑問ですが、ようするに、ドンチャン騒ぎはしない方がいいのではということでしょう。この戒律を文字通り読むならば、歌を歌ったり聞いたり、踊りを見てはいけないと読みますが、今の世の中では到底無理な話です。

では、どうすればこの戒律を守る事ができるかといえば、それは、心を落ち着かせるための音楽や、心をなごませるような劇ならば、見たり聞いたりする事は多いに結構です。これが他人に不快感を与えるようなものはやめるべきであり、個人差はありますが、極力つつしむべき「いましめ」と受け止めたいものです。

最後に「不高広大床(ふこうこうだいしょう)戒」という戒律です。これは派手な敷物や、華美な寝具を用いないということですが、私達は贅沢なジュウタンを敷き、寝るときの布団は、羽毛でなければならないとか、かざりのたくさんついたベッドでなければと、かなりはなやかな生活を送っていませんか。このような内装や態度をいましめ、やはり生活の中は、地味に振舞うことが望ましいという戒律です。

いかがでしたか。本日は「持戒」について五つの戒律と、三つの戒律を守ることにより、より人間らしく生きる道をお話しいたしました。

皆様は、どうぞできる事から始めて頂き、社会に役立つ人間としての歩みを念ずる所です。

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法話62 忍辱行
いよいよ本格的な梅雨に入りました。
そんな湿気の多い日々を過ごさなければならないのは、つらいものですが、この雨を待ちわびている、私達の命の源、田植えの季節であることも感じたいものです。

さて、本日は六波羅蜜の行で、第三番目の「忍辱(にんにく)」という実践行についてです。

この言葉をそのまま聞きますと、ユリ科の一種である、食用に使われるものとして、よくギョウザに入っているものと想像してしまいます。

実は仏教用語で、恥に耐え、ひたすら我慢をするという大変崇高な意味があるのです。忍とは皆様ご存知の通り、しのぶと言う字であり「辱」と言う字は、侮辱とか屈辱と書く時に使われる漢字です。

普通「ニク」とは言わず先程のように「ジョク」と使われているこの字には、ほかにいろいろな意味があることもお話しいたします。

それは「かたじけない」「もったいない」「ありがたく受ける」などの意味があり、近頃では、死語になりつつある言葉なのです。

そこで、この様な意味のある「忍辱」と言う実践行が知らされた今、あなたは、この現実社会に生きて行く上で、心を平安に保ち、あまり怒らない方がよろしいのでは、ということです。

しかし、現実は思うようにいかず、腹の立つ事が、大変多いことも事実のようです。そんな時、我慢をしなければならない場合もありますが、いろいろ問題にぶつかる現実社会に対し、決して腹を立ててはならないということでもないようです。

なぜなら、お釈迦様がお説になられた「行」は、その問題をじっくり考え、この件に対しては、一応意見として述べよう、この問題については、それ程腹を立てることもないであろうと、見極める力を持つよう努めることが大切であるというお悟しなのです。

たとえば私達は、怒りの中で、暴力という手段で物事を解決してしまう場合も少なくはないようです。これは決して好ましくない解決方法でしょう。

ですから、日常生活を送る中で、感情的になることの多い自分自身を、どれ程抑える事ができるかの心を取りもどし、問題解決が望まれます。そして、暴力に訴えない自己確立をめざす事にその「行」の大切さがあるのです。

さらに、この「行」にはもう少し深い実践行としてのお示しがあります。それは「他人を許す心」ということです。なかなか、この心に到達するのは難しいと思います。

なぜなら、人間は、絶対に怒ったり、おこったりせず、何をされても耐えることができるでしょうか。確かに、前にもお話しいたしました通り、見極める力を持つ事ができたとしても、物事次第によっては、どうしても腹の立つ自分になってしまいます。

ですから、そんな簡単に、他人を許すなんて考えは到底生まれてきません。ここの所が実は深い意味と感じる事なのです。

そこで、私達の見極めというのは、自分の利害関係の上になりたっていると考えてみてはどうでしょうか。まさしく自己中心的な発想の元で、生活していると言えるのです。

自分さえよければとか、他人はどうなっても構わないと考えている一方で、自分の失敗については、責任転嫁の心がいつも働いています。

また、私は決して迷惑などかけていないし、ましてや、人様に後指をさされるような事などはしていないと、日々の暮しをしています。はたして本当にそれでいいのでしょうか。よくよく考えてみますと、人間が生きて行くと言うのは、他人に迷惑をかけながら生き、その迷惑を相手が許してくれているから、生きて行くことができるのではないでしょうか。

にもかかわらず、その事に気付こうとせず、世界は自分を中心に回っているかの如くの振る舞いや、人を平気で傷つけている言葉を発し、何のためらいもなく過ごしている私である事にも気付いていない。本当はそのような私を、全てが許して下さり、私の存在そのものまで我慢してくれているのです。

たとえば、競争原理の世界では、勝者もいれば、敗者もいます。
働く人の世界であれば、職に着ける人もあれば、そうでない人もいます。このような世界ですので、立場が変わると、我身にもふりかかってこないとも限りません。従って他人から受ける屈辱や侮辱に我慢と言う心を起し、耐え忍ばねばならない人生であると、お釈迦様は説かれました。
如何だったでしょうか。
本日は大変難しく、厳しいお悟しでしたが、皆様はどうぞ「少瞋多謝」即ち、いかりを少なく、常に感謝の心で過ごさせて戴く心持を忘れず、この「行」に励んで下さいますよう念じます。

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法話63 精進行
前回は、大変厳しい「行」のお話でした。それは「他人を許す心」という「忍辱」の実践行を積むことで、私の生きている世界に大切な意味を持ち、いろいろな問題が起ったり、対人関係が保てなくなった時など、その状況に対して、しっかり見極める力を養う事というお話でした。

そこで今回は、その「行」を実践していく上で、第四番目の「精進」という「行」が如何に重要であるかのお話です。

さて、「精進」と言いますと、八つの正しい道シリーズでお話しいたしました通り、重複する部分も出てくるかと思いますが、六波羅蜜の「行」としてお話を進めてまいります。

まず「精進」の言葉を、一般的に、思い浮かべるとしますと、悲しかな、本当の意味を知らず、精進料理とか、精進揚げ、精進落しなどとしか使われていないように思えます。

これらの言葉は、もともと、仏様の教えの中にある、特に守るべき戒律として、最も重要な「不殺生戒」を破らない為に、努力しなければならない事から生まれた言葉なのです。

それは当然、仏道修行を行う上で、努力して励むと言う大切な意味があり、さらに戒律を守らなければならない事から、肉や魚を用いず、料理する事が本流とされ、精進料理として、野菜類だけを用いた天ぷらを精進揚げと言ったのです。

ところが、現代社会にあっては、人一人りがお亡くなりになりますと、「穢」をのぞき、「崇」や「とりつく」事から身を守る意味に「精進」と言う言葉を当てました。

そして「精進落し」と言い乍ら葬儀の終った後に、「はらう」意味あいと、肉類を食べてもよしとした行為をするようになったのです。ですから葬儀は「穢」た行為であり、参拝者は、皆「とりつかれている者」として扱われ、それをどうしても、落しておかなければと、俗習化し、しきたりとして伝えられてきたのです。

何ともあきれた「しきたり」ではありませんか。元々のの意味から程遠くなっている事実を、再び考え直し、本日はあらためてお話しいたしました。

このような反省のもとに、「精進」を考えるならば、現在行われているしきたりとは全く関係なく、言葉の持つ意味からすると、人生いかに生きるべきか、問いかけながら過ごして行く姿そのものであるということなのです。

その姿を仏教的に修行といい、たとえ植物であろうとも、命ある物を食べる事によって、自分の命に変わっていく事から、せめて、血を流す小動物より、野菜だけを食べる事により、殺生をしないと、人間的感覚を呼び戻そうとしたのです。

以上のように、正しい努力を重ねていく行き方が、本当の「行」であると言う事を知りました。

しかし、世の中では、何が何でも、がむしゃらにつき進んで行く方もみうけられます。これは、間違った努力と言わねばならないでしょう。

たとえば、スポーツの世界では、ひたすらトレーニングを積み、厳しい指導にも耐え、人より何倍も努力したと、自分自身に言い聞かせ、いざ競技に望んだ時、その努力が報われず、良い結果が表れないとしたらどうでしょう。再び頑張ろうと言う思いより落胆してしまう心の方が強くなるのではないでしょうか。

また、商売の世界でも、一生懸命働き、企業努力もした、お店の前で呼び込みもした。いろいろな手を尽くし頑張られたまではいいのですが、その必死さが実らず、売り上げが少ない時、どう思いますか。

「これだけか」と溜息をつき、商売に対する意欲をなくしていませんか?これでは、本当に努力したとは言えないのです。何故なら、厳しい言い方かもしれませんが、両方共、自分の利害の為に努力したにすぎないからです。

本当の「精進」とは、結果の善し悪しにかかわらず、あるいは、金儲け第一主義にならず、努力する事なのです。これを仏教では、中道として説いています。

これは、お釈迦様が荒行、苦行をされていた時代、死ぬ一歩手前で、スジャータと言う村娘から、一杯の乳がゆをもらい、それを飲んだ時、悟りを開いたと言われています。ようするに荒行も極端であり、王子としての生活も恵まれすぎ、人生の上には、片寄ってはいけないと言うお悟しなのです。

従いまして、精進とは、中道の教えを軸に実践活動する事で、私達がお風呂に入る時、熱くもなくぬるくもなくと言う時にいいます「いい加減」であり、「程良い」ということなのです。

ですから心持ちとしては、極端な努力ではなく、平常な精神こそが本当の「精進」と言えるのです。どうぞ皆様もこのような努力精進を、日々の実践として考えてみてはいかがでしょうか。

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法話64 禅定行
六月も下旬に入り梅雨の真只中、少しの晴れ間をぬって、気持ちよく洗濯物を干したり、勢々と窓や戸を開け掃除をしたい気分です。

さて、今回は前回同様に、人生の歩みを、六つの行で過して行く生き方のうち「禅定」ということについてお話しいたします。

そこで、「禅定」とはどう言う「行」かと申しますと、精神を統一させるという意味ですが、一般的には、その方法として座禅をまず奨めています。そしてその「行」を基本に、精神の集中を図り、また精神を開放すると説いています。

しかし、日常生活をしていますと、座禅を組み、その為の時間を費やす事などはなかなかできません。それでは禅定の「行」ができない事になってしまいます。

ところがこの問題を解決する方法として、私達の暮しの中にも立派に「できる事」をお話しいたします。後程、座禅についても、お話したいと思います。

では私達の一日を振り返ってみて下さい。朝起きて顔を洗い。掃除、洗濯、朝食と始まり、学校へ行く人、それぞれ準備をして出掛けます。そして、昼間の時を送り帰宅すれば、家族の皆で夕食をし、各人が自分の時間を過ごした後、風呂に入って床につきます。まあこんなところでしょうか。実は、ここに「禅定」の心があり、「行」がある事をご存知でしょうか。ようするに「あたりまえ」に行なう事が、私達にできる修行なのです。

ではいつ精神統一をするのかと、また問題が起きました。先程も述べましたが、更に一日の行動を追ってみましょう。

皆様の寝起きは、いつも快調ですか、ついつい朝寝坊をしたくなり、なかなか布団から出ようとしないのではないですか。それこそ、たたき起されなければということがしばしばです。すると当然、布団をたたみ、押入れにしまう行為も面倒になり、そのままの状態、顔を洗う事もそこそこに、朝食のテーブルに。終れば食べっぱなし、自分の使った「箸」や「茶碗」を洗いますか、

そして、あわてて、会社や学校に行きます。このような毎朝のくり返しを送っている私達です。

それを少し改め、自分のできる事から始めてみるというのが「禅定」なのです。 それには、精神を統一させ、日々の行いをきちっとし、「あたりまえ」の人間的行動をする所に、本当の「行」があるのです。

ですから、特別の方法があるのでもなく、自分自身の回りをもう一度見直して、心の統一を図りながら、今迄の行動を正しい方向へ改め充実した生活を送る事が大切であると説かれているのです。

こうした生き方を、私達がよく耳にしたり、掛軸で見たりする言葉に「日々是好日」と言い表されています。

この語句は中国の「雲門文 (うんもんぶんえん)」と言う禅僧が説き、大変意味の深いものを感じます。好日とは、すばらしく充実しているということですが、いつも変らない楽しさや嬉しい日ばかりではなく、当然そこには、身心を引き締め、常に新しい事への挑戦が要求されます。そして、日々の行動が悔いのない一日である事が、この語句の持つ意味なのです。

さらに申し上げますと、ただ単に「好日」を解釈しますと、なにかいつもしまらない緊張感のない事の様に考えられますが、決してそうではありません。

お釈迦様が「人生は苦なり」とお説きになられました通り、本来は苦しい日々の方が多いのではないでしょうか。そんな苦しみの人生の中から、生かされている「命」の発見があり、その喜びを感じる事が大切なのです。

また、本当の喜びは、逆境や苦しみを乗り越えた方しか言えないと思います。そして、いつも順調と考えている間は、一時の喜びにしかならず、かえって怠惰な日々を送ってしまいます。

従いまして、苦しみが大きい程、それに打ち勝った時、健全な精神となり、喜びも倍増するでしょう。このような生き方が「日々是好日」であり、自分自身の向上を目指す生き方として、自己満足せず、真の禅定が、生活の中に求められるということなのです。

以上が本日の意図とする所ですが時間に少し余裕のある方は、お釈迦様が同じように説いています「瞑想」をお薦めします。 これはめまぐるしい世の中を過ごしている方々には難しい「行」かもしれませんが、要するに座禅を組み、世の中の雑踏から離れ、静かな心持で自己を見つめる事です。

しかし、私達はかなり社会に毒されていますから、せめて「ぼうとする」時間を作ったらどうですかということです。

実は、この時間も、あくせくしている私達には大切な時かもしれません。即ち、心に「ゆとり」を持ちながら禅定に励む事も、もう一つの「行」として説かれています。いずれにしても日暮しの中の「行」か「瞑想」を選び生活に「喝」を入れてみる事を念じます。

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法話65 智慧行
今回はいよいよ最後の派羅蜜「智慧」についてのお話です。

その「行」をお話しする前に、このシリーズがどんな意味を持つお話であったか、もう一度申し上げてみたいとおもいます。

まず六つの日常実践六波羅蜜とはどの様な事でしたでしょうか。それは、仏教徒として、基本的な生活を送る上で、大切な「行」である事と知りました。即ち「到彼岸」と言いまして、彼の岸、いわゆるあちらの岸に到るという意味で「あちら」とは、「こちら側」である、私達の迷いの世界に対して、悟りの世界を意味しています。

しかし、ここで注意しなければならないのは、必ずしも「来世」とか「あの世」とかと言う事ではありません。そういう意味合いではなく、「六波羅蜜」とは「迷いの世界」から「悟りの世界」へ導かれるため、六つの実践行を積み、そこから人間としての正しい生き方が問われるということなのです。ここまでは思い起していただけましたか。 さ

て、復習が長くなりました。早速「智慧行」についてのお話に移ります。

この「行」は今までお話をする中で、布施、持戒、忍辱、精進、禅定を実践することによって完成するとお話しました。逆に五つの完成を目指す為には、この智慧が大切である事とも重要な問題として説かれています。

そこで、智慧とはインドの言葉で「パンニャー」と言われ、中国の漢字に当てられますと「般若(はんにゃ)」という字になります。皆様もご存じの「般若の面」と言う時に使う漢字ですが、何か恐ろしい顔をしている「面」である事も知っています。

なぜこのような顔を「般若」と言ったかは諸説があり、ここでは本来の「智慧」イコール「般若」としてお話を進めていきます。

ここで「智慧」を解いていかなければなりませんが、大変な難しさを要求され、それこそ、私の様な浅智慧では、到底説明できるものではない事を承知の上で、次のお話しからご理解戴けるものと思います。

このお話は、お釈迦様が伝道の旅をしている時代のことでした。

ある村に、一人の女性がやっと子宝に恵まれて、男子を出産いたしました。女性は母親になった喜びを一杯に、それはそれは大そうなかわいがり様です。

ところが、この子がやっと歩けるような年頃になった時、突然死んでしまったのです。母親は死んだ子供をかかえ、気が狂わんばかりに、村中をさまよい歩き出したのでした。

「誰かこの子を生き返らせて下さい」と何度も何度も叫びながら、救いを求めているのです。村人達は、その必死になっている姿を見、声を聞くのですが、何とも仕難いことはわかっているのと同時に、ただ気の毒にと思うだけなのです。

そこへお釈迦様が通りかかり、その母親に声をかけました。 「どれどれ私がその子を生き返らせてあげよう。しかし条件が二つある。それは誰も死に人を出した事のない家からケシの実をもらってきなさい」ということでした。

母親はこの子が生き返れば、どんな難問でもできるとばかりに、家から家を訪ねて歩くのでした。ある家では、最近夫が死んだという女性に会ったり、またある家では、同じように子供が死んだと涙ながらに話をする母親に会い、どうしても条件の整う家は見つかりません。

それでもと歩いている内に、母親の心は、少しづつ平静さが戻ってくるのでした。子供をかかえて歩き回った結果、母親の心に変化が見えてきました。

それは、どの人も皆悲しみや苦しみに耐え、自分ばかりがこの様な境遇ではなかったのだと気づいたのです。

母親は再び、お釈迦様のもとへ帰ってきました。そしてお釈迦様が静かにお尋ねになります。「どうですか、ケシの実をもらってきましたか」と、母親は「もうケシの実も何もいりません。この子を静かに埋葬してあげます」と涙をこぼしながら答えるのでした。

以上が仏教の説く智慧です。このお話はいろいろな伝えられ方がありますが、以前私が聞きました内容を基に申し上げました。

いずれにしても、人間は皆智慧を持っていますが、出しきれていない事が現実です。母親は、あまりの悲しみに正しい智慧が浮かばなかったのでしょう。現実社会を思う時、私達もこの母親の様になりかねません。知識としては豊富な社会人でも、本当の智慧をもっている方は少ないと思います。

仏教とは、智慧の教えであり、これが役に立つとか立たないとか言う様な差別的心を持ってはならないという教えです。物事をありのままに見て、「あたりまえ」の事を見抜ける力を養うことが、この「智慧行」なのです。

如何でしたでしょうか。この六つの「行」を日常の実践行として、これから励み、智慧の眼を持って正しい人生道を歩んで下さいますよう念じつつ、このシリーズを終ります。

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法話66 少瞋多謝
七月に入りいよいよ本格的な夏に入ろうとしています。これからは、海に山に楽しさ一杯の計画を立て、暑さを乗り切る事でしょう。どうぞ事故につながるような事がないようにお過ごし下さい。

さて前回は六波羅蜜の「行」シリーズも終り、今回から新しいシリーズに入ります。それは、心が豊かで楽しく長生きしたい人の為に、これから申し上げます事柄を、守りさえすれば必ずや、実現するというお話です。

では最初の秘訣「少瞋多謝」(しょうしんたしゃ)です。この語句は派羅密の話の中で少し触れましたが、ここでは私達にとってどういう効果があるのか、説き明かしていきたいと思います。

「少瞋」とは「いかりを少なく」ということです。瞋の字は、目偏に真と言う漢字を書き、先程も言いました通り「いかる」「おこる」という意味です。文字通り何事にも腹を立てず、どっしりとした気持ちで暮しましょうということです。

そうは言ってもそこに「少」の字が付きますので、たまに少しくらいは、いかったり、おこったりする事は許されているようです。そう言う解釈をしていかなければ、今の世の中はストレスがたまり体調を崩しかねません。

ただここで問題は、許されているからと腹を立てた後の「鉾(ほこ)」をいつ収めるかということが大切になってきます。いつまでも腹を立ていかりの気持ちでいれば、まわりの方々に不快を与え、本当の意味から離れてしまいます。ここのところを注意しなければならないと一考を投じておきましょう。

しかし、世の中本当に腹の立つことが多いですね。一体何を考えているのかわかりません。ちょっとここで身近な問題を提供し、一緒に考えてみたいと思います。

それは、私のお寺近くにちょっとした公園があり、昼時になりますと、老いも若きもといった具合に、車で訪れ、休息するには絶好の場所です。なかには昼食をとり、昼休みを過していくドライバーやあたりの静けさに誘われ、ひたすら仮眠を取る所として、いわゆる公共の場所なのです。

ところが、そういう方々が去った後、残念なことに昼食の食べかすやゴミがちらかり放題になっているのです。空き缶はもとより、コンビニの袋が散乱し、見るも無残な公園に変っているのです。そこは多くの小学校や、幼稚園の園児達も時折り遠足に来ては楽しんでいく所でもあるのです。その状況を見て、子供たちは何を思うのでしょうか。きっと子供達が大人になった時、道徳性のない人間になっていくのではと心が痛みます。

自分さえ良ければとか、来た時から散らかっているから自分一人位は大した事はないだろうとの考えが、何人にもなれば決して良い訳はありません。

しかもそこには、ゴミを棄てると六ヶ月以下の懲役又は五万円以下の罰金と書かれている看板が立ち並び、さらに「ゴミ棄てるあなたの心が悲しいね」と言う標語まであります。何故このような看板が立てられていなければならないのか、本当に腹が立ちます。誰もが、自分の出すゴミは自分で持ち帰れば、当然いつも美しい公園であるはずなのに。

さて、このいかりをどう収めるかが問題です。それは、気が付き目にした時、他人に出したゴミでも自分が拾って帰ればいいのです。単純な考えかもしれませんが、これがなかなかできない心の働きです。何故他人のゴミまでとか、そんな格好つけなくてもと思うでしょう。しかしどう思うと、拾うという行為に至った時、いかりの心を起してもいいのです。つまり、見て見ぬふりをしている間は、腹を立てる資格はありません。目の前に起きている状況や現象をよく見て、程度の差はありますが、行動に移す事こそ「鉾」を収める事になるでしょう。

論語に「義を見てせざるは勇なきなり」という諺があります。

これは「正義であると知りながらそれを行なわないのは勇気がないからである」という意味ですが、誠にその通りです。

要するに「いかり」と言う心は自分自身の勇気のなさを恥、どうしても行動がともなわない時に起きるようです。ですから、誰がどう感じていようと、正しい事と解っていれば、即実行なのです。

終りに近づきましたが、「多謝」について申し上げますと、私達は知らず知らずの内、相手に対して傷つけている事がたくさんあります。そんな時、そうと解れば、否を否と認め謝ればいいし、相手から納得できない事柄を言われれば、きっぱり反論すべきでしょう。

そして読んで字の如く、感謝の気持ちを何事にも忘れないということでしょう。しかも「謝」の字は「あやまる」と言う漢字ですからいつも「すみません」と謝って生きる事が長生きの秘訣なのです。

いかがでしたでしょうか。お怒りはごもっとも、ストレスのたまらぬ内に「少瞋多謝」の日暮しをお薦めいたします。

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法話67 少欲多施
今回は、前回より永生きの秘訣として入りました二番目のお話です。それは「少欲多施」と言いまして、文字通り「欲を少なく多くを施す」という意味です。

簡単な事のようですが、これがなかなか難しく、この法を守っていけば必ず永生きできると説かれているのです。

では私達の生活に目を向けてみましょう。欲を少なくと言われますが、生きることは欲なしと言う訳にはいきません。まず食欲があります。食べなければ誰も餓死してしまいます。

次に睡眠欲です。不眠不休などと言う言葉がありますが、寝なければ体調を崩す事は誰もが知っています。

ここまでは直接身体に関係する事ですので、ほとんどの欲として結構ですが、物欲は何でもほしがる心であり、名誉欲、財欲、愛欲、強欲など私達の身の回りは、捨てなければならない欲もたくさんあります。

いずれにしてもこの欲を全て、ふるいにかけて、最後に残る欲が、「死にたくない」という欲でしょう。ですから私達は生きているのです。欲がなくなった時、それは仏様になるという事なのです。

しかし、私達はそうやすやすと仏様になる気はないし今の話はできるだけ永生きをしようという事ですから、この欲も許してもらいましょう。ただ本当に永生きをしたいと思うならば、欲を少なく、自分自身でコントロールすべきであると言えるのです。

ここで欲について文明的観点から話を進めてみたいと思います。それは、科学の進歩や機械文明の発達は時間がほしいという欲から出発していると思います。

何故なら現代社会の機械化は、能率向上の為であり、時間との闘いに他ならないからです。このような歴史が人間の存在価値を見失い、全て機械に頼る味気ないものになっています。もちろん現代に即応した生活形態を否定する気はありませんが、もっとゆっくり進む事も、今となっては大切なのではないでしょうか。たとえば、昔の人々はほとんどが人力という方法で社会を作ってきました。

確かに効率性は現代におよびもつかないでしょう。しかしそこには、温もりや暖かさがあり、汗や涙もありました。そしてその行為は文化となり芸術となって、つい最近まで伝えられているのです。

ところで、それ等のものが次第に失われつつある事は、少なからず私達の欲と言う事になると思います。また、一時を欲しがる欲が車や電車や飛行機を生み、旅の楽しさよりも、あそこも、ここもと贅沢が重なり、環境問題にまで発展しています。

さらに、科学の発達は、停まる所を知らず、当初は人間の為に、便利な物として発明された火薬類は、今や殺伐の道具になり果ています。

こうして、一人一人の欲が進歩、発達、改造という名の元で社会現象にまで暗い陰を落している事は皆様の知る所です。即ち、大げさかもしれませんが、欲とは人間の破滅にもつながっている事実に今こそ気付くべきなのです。

そこで、自分自身の永生きもさる事乍ら、全人類的なものの考え方も含め、私達が自分の欲を少し減らして行く事により、多くの人々が救われる事にもなるのです。

今私達の社会は戦後先輩方々の努力により、何もかも恵まれた時代を生きています。その反動が、心を失い食べ物を平気で粗末にし、物を大切に扱わなくとも、すぐ手に入る。このように全てが飽食の時代として、過しています。この現実に誰もが気付かないと言う事に、恐ろしささえ感じますが如何でしょうか。

そこで申し上げたい秘訣が、「多施」という事になるのです。

「多施」とは「施しを多く」と言う意味ですが、布施シリーズで、この施しについては、お話し申し上げましたので、本日はお許し願います。

しかし、人間はどうしても、俺我俺我の我を捨てきれません。その我が、欲を生み、施す事すら忘れ、人に与えると言う尊い心がいつの時代からか失われてしまっているのです。この様な現代社会の悪しき風潮を誰が作り上げたのでしょうか。本当に残念な気がしてなりません。

どうぞ皆様、お互いにもう一度自分自身の身辺を見直し、世の中の現象が、自分の欲と密接な関係がある事に気付き、施し多き生活を営む事に、実はお互いが永生きできる道であると感じ、実践してみてはどうでしょうか。

まさしく「少欲多施」の生活こそ、私達に課せられ生き様と知らされたところです。

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法話68 少肉多菜
今回も前回に引き続き、永生きする為の秘訣第三段です。

それは「少肉多菜」と言いまして、肉を少なく野菜を多く食べるという事です。

最近ベジタリアンとか言って菜食主義の方々が多く増えました事は結構な事ですが、ヘルシー食品と称して商業ベースに踊らされている方も見受けられます。やはり時にはお肉も食べ、カロリー的に言っても、身体から力が出てこなくなっては困りものです。

どちらにしても健康的な管理はやはり自分自身で考えるべきでしょう。

それはさておき、今から食文化についてお話してみたいと思います。

日本人は農耕民族ですので、お米を主食としてきました。それは、春に種をまき秋に収穫する、この営みが実は人々が生活して行く上に、多くの事を学ぶ切っ掛けになっていたのです。

それこそ自然科学の勉強をする分野に入るとおもいますが、昔の方々は、現在のように学問的に学ぶ前に、実体験を通して、歴史を重ねてきたと思います。その体験学習が現在の日本を支え、科学的に分析しようとしまいと、生きる為の源になっているのではないでしょうか。

たとえば、一粒のお米がどんな過程を経て、私達の口に入るかなどは、書物から知る事ができますが、そこにはありがたいとか、もったいないと言う様な心は感じ取る事はできません。

何故なら食材としてのお米であり、結果として日本人の主食という事だけだからです。

本当はこの結果に至るまで、どの様な方々が関わり、私達の元へ届けられているのでしょうか。じっくり考えてみる必要があると思います。

仏教では何事も原因があり、縁が重なって結果が生まれると説かれていますので、その関係をお米について考えてみますと、まず苗代に種をまき、しばらくすると苗床ができます。それを田圃まで持っていき、二〜三本を田植ます。時には、苗代留と言って、気候の変化などで苗の生育が不良な場合、田植えを遅らせるようなこともあります。一ヶ月二ヶ月経ちましてその間農薬の散布をしたり、水量を計ったりしながら、ひたすら生育を見守ります。これだけでも大変な手間暇がかかっているのです。

それから次第に稲として生育し、夏になるとあたり一面緑一色になります。そしていよいよ水も引け、除草をしながら、稲穂が垂れるのを待ちます。もし台風などがきて、収穫ができなければ、今迄の苦労も水の泡となります。その対策もきっと考えなければなりません。

さあ、いよいよ稲刈りです。次に脱穀です。お米の籾(もみ)を取り、やっとお米の粒が表れてきました。まだまだ玄米ですので、私達は食べられません。これから精米をして、やっとのことお米として、ご飯が食卓に並ぶのです。

どうでしたか、たった一粒の米にも、これだけの縁を必要とし、私達の口に入る結果を生んでいるのです。

このように考えていきますと、如何に多くの事柄を学び取れるか、もうお解かり戴けたかと思います。お米がお米となるまでに、自然の脅威から稲を守る気象学や薬学、丹精込めて生育を見守る為の植物学、人間の命の量となる為の栄養学など多くを昔の方々は実体験と言う型で私達に提供して下さっていたのです。

しかし、現代社会に生きる私達は、これ程までにご苦労されていた事を思い、食べていたでしょうか。確かに、機械化が進み農業も昔程ではないとは言え、やはり多くの方々の関わりを考えてこそ、食べるべきではないでしょうか。

本日は、肉を少なく野菜を多くと言う秘訣がいつも食べているお米から、人々のご苦労を知らされました。これこそ、食文化を伝えて行く私達の責任かもしれません。

終りに近づきましたが、食事をとった後、どうすれば永生きできるかと説かれているお経の一説をご紹介しておきます。

それは「飯食経行」と言いまして、「食事をして後でそぞろ歩きをしなさい」と説かれ、わかりやすく言いますと、物を食べた後は、ゆっくり歩き回る事が、身体の為になり、健康に大変良いと言う意味になります。

私達は忙しい日々を送っていますので、このような事はできないとばかり、すぐに仕事に入りますが、欧米では二〜三時間、食事の時間を持つと伝え聞いています。そこまで似ねろとは言いませんが、せめて、一時間位は休みを取る事が大切です。

如何でしたでしょうか、いずれにしても、永生きをしたい方は、どうぞ、「少肉多菜」と、「飯食経行」を守って下さればよろしいかと思います。まずは実践してみてはどうでしょうか。

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法話69 少機多体
七月もあと一週間、本当に時の経つ早さに驚くばかりです。夏も本番となり、これから暑い日が続くと思います。どうぞ健康には充分注意され、夏を乗り切って下さい。

そこで本日は「少機多体」と言いまして、永生きの秘訣第四段に移ります。

これは機械類に頼らず、自分自身の力を信じ健康管理に努めましょうという事です。

最初にお話し致しました通り、暑さを乗り切るには、しっかり汗をかき、自然にまかせる事が永生きの秘訣なのです。私達は、この時期になりますと、涼しさを求め、いろいろな手段を使おうとします。その手段に問題ありでして、近年機械による求め方なのです。

その機械とは、扇風機や、エアコンであり、人々が同時に使うので、町中電力で起こる暖かい風が巡回し、窓を開けている事ができず、又家の中はエアコンをかけてしまう。全く悪循環なのです。皆様も記憶に新しい事と思いますが、数年前エアコンの使い過ぎが第一位を占めその他の電気器具の電力消費に供給が追つかず、節電運動が展開されました。テレビの深夜放送を自粛し、広告塔のネオンを時間制限するなどして、できるだけ電力の消費を少なくすると国民がこの運動を支持しました。ところがそれもつかの間、現在その教訓が生かされず再び無駄な電気を使っています。

今やあらゆる機械の使用が、深刻な環境問題にまで陰を落している時代に、地球的規模で考えてみる時、私達一人一人が取り組み、この問題に対応しなければならないと思います。

更に資源は無限ではなく、有限である事も、次の世代に伝えていかなければならないのは、現代を生きる私達の責任ではないでしょうか。

消費は美徳と言われた時代は、もうすでに終りました。その時代の考え方が、現代社会に落している悪い環境は、「つけ」と言う言葉と同時に私達の健康まで脅かしています。

話が大きくなってしまいましたが、身近な家庭生活で考えてみたいとおもいます。 先程の「つけ」はあらゆる場面で払わなければなりません。

まず身体的な事柄として、便利さからくる体力の低下、確かに子供達を見ると、全てに平均値は上がっています。体型的には申し分ないと思いますが、体力となるとどうでしょう。すぐにあきてしまい、継続性は感じられず、何よりも我慢ができなくなってきています。これ等はやはり、体力面からくる精神的な作用と言っても過言ではないでしょう。

具体的に言えば掃除一つにとっても、箒で掃いたり、雑巾がけをしたりする動作は、掃除機に変り、手洗いしていた洋服類は、洗濯機、手書きをしていた手紙や文章は、ワープロやパソコン、又少しの距離でも歩く事を忘れ、乗り物に頼っている。

あるいは、テレビを見る時も、チャンネルぐらい自分で動き変えればよいものを、リモコンと言う便利な機器があるので動く必要はなし、それこそ今に人間の身体は退化してしまうのではないでしょうか。

更に子供の世界に目を向けてみますと、屋外で元気よく遊んでいた子供達は、家の中でテレビゲーム。遊び方を知らないと言ってしまえばそれまでですが。しかも部屋の中はエアコンがきいていて最高に快適。勢々と汗を流し、飛び回って遊ぶ姿など全くと言っていい程、見る事ができなくなりました。

こうして私達の家庭生活は機械の中にどっぷりとつかり、これでは体力も低下するはずです。健康的な身体を保つには、一日一万歩が理想的である事を知っていますか。昔の人々は医学的な知識がなくても、自然の中に、あるいは家庭生活を過す中で、こうした健康法を学んでいたのです。

そこで提案しますが、家庭生活を全く手動にし、自分自身の力でできる事は機械に頼らず過ごしてみてはどうでしょうか。

エアコンは、かかり過ぎますと体調によくない事は誰もが知っています。自然の風程いいものはありません。たくさん汗をかき、この夏を乗り切ってみましょう。三日間だけでも実践してみてはどうでしょうか。三日坊主も三回続けてば九日間になります。

今一度自分の回りを見渡し無駄と思われる機械を排除し、いや一時使わず、自分の力を試してみては如何でしょうか。現代の人々がこのように取り組んで戴けたならば、今の社会現象はすばらしく変り、町中に澄み切った空気があふれると思います。

今回は「少機多体」の秘訣が自分もさる事乍ら、現代社会にまで影響を与えると知らされた事です。どうぞ実行してみて下さい。

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法話70 少迷多学
いよいよ8月に入り、子供達は海に山に、楽しい夏休みを存分に満喫している事でしょう。

さて、大人達は、と言いますと、相も変らず暑さに不平不満を言い、涼を求めようとも動くのはいやだと言った具合に、自分の計画のなさを棚に上げ日々をむなしく過しているのではないでしょうか。

そこで本日は、その悩みや迷いを解決し、暑さの中でも、多くを学び取る方法として「少迷多学」のお話をしたいと思います。これはシリーズ第五段になりますが、あくまでも永生きの秘訣であることも忘れないで戴きます。

さて、「少迷」はご想像の通り、迷いを少なくという、人間にとって最も基本的な生き方であります。

私達は何か行動に移す時、必ずと言っていい程迷います。その迷いが事と次第によっては、正しい方向へ進むこともありますが決断の鈍さが、自分にとっても、とんでもない事態を招く事もあります。生きて行こうとする中では、この鈍さはあまり感心できるものではありません。

要するに、迷うという事は、次に出る結果の善し悪しに大きく働き、その迷いが、あくまでも正しい方向につながらなければ、何の意味ももたないという事なのです。

ですから迷うと言う事は大いに結構ですが、できるだけ迷わないようにと心掛ける事が「少迷」の大切さなのです。

たとえば、私達の世の中には、いろいろな人がいまして、広大な計画を立てたまではいいのですが、あれやこれやと迷った揚げ句、その計画が実現されないまま時を過してしまう例や、すばらしい立案の基、これで完璧、まちがいなしと、いざ実施と言う段階で、ちょっと待てと迷い、とうとう何も進まなかった例もあります。

要するに、画用紙には、いくらでも「餅(もち)」は描く事ができます。実際にその「餅」を食べる事ができるか、できないかで世の中の生き方が違ってくるのでしょう。どんなに上手に描いても、手にとって食べる事ができそうな絵でも、やはり実物でないものは、腹を満たしてはくれません。

また、その逆に何も描かず、無計画な行動に出て、不充分な準備の為、大失敗をした例も時々耳にします。ですから、絵に書いた「餅」も困りものですが、無計画も困ると言う所に、目的や目標に添った「迷い」という準備があると言う事です。

従いまして、ここまでのお話は、当然人生設計に於ける所の話として受け止めて戴き、これからのお話は、皆様にぜひ試してみてはどうですかと言うお話に移ります。

早い話結論を先に申せば、迷っている間に実行してみては如何ですかとお奨めし、本日の「少迷」は即実行と言う観点でお話申し上げているのです。

そこでよく言われる、即決とか即実行の場合、失敗を恐れていては何もできません。長い人生には失敗はつきものです。今何をすべきか、私は何をしなければならないのかと言う時、あれこれ悩んだり迷ったりする前に、まずは行動してみるべきです。

そして、その結果が自分にとって最悪のものであれば、悪い結果を学習できたとの思いで、良い結果を生む為の努力を、惜しまないという事でしょう

先程も申しました通り、決断の遅れが自分ばかりではなしに、回りの人々にまで迷惑をかけてしまうという事を多くの方々が経験なされていると聞きます。

その意味あいを仏教的な見方から申せば、しきたり、俗習風習シリーズでも取り上げた通り、日の善し悪しを選んで、行動に移るなどという事は、とんでもない失敗につながり、あるいは時を逸して何の為の人生だったかと後悔の念に至る事もあるのです。決して大げさに言っている訳ではありません。大切な一日一日なのですから無駄のないよう暮したいものです。従いましてこの日を選ぶと言う事はできるだけ、さけたい事柄の一つです。

即ち「少迷多学」とは、実践を通して失敗が量となり、その学びを飛躍の一歩につなげていき、結果がすばらしいものであれば大いに喜び感謝し、回りの人々にも分かち合える心を養っていく人生感という事なのです。

いかがでしたでしょうか、今皆様は、この暑さをどうしようかと悩んでいるでしょう。暑い暑いと言ってばかりいないで、海水浴に森林浴に出かけられたらどうですか、きっと子供達も喜ぶと思います。どうぞいってらっしゃい。

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