ネット法話③

22.業(ごう)

今週は先週の続きを少しだけお話しし、次の語句へ移りたいと思います。
人間関係の基本中の基本が挨拶というお話でした。
そこで私達が普段使っている挨拶言葉の中に「今日は」と言う言葉があります。実はこの語句こそ最もすばらしい仏教用語なのです。
それは教典の中に「今日世尊」と言う経文で知ることができます。「今日世尊」とは、「お釈迦様、あなたをお敬(うやま)い致します」とか、「尊(とうと)く感じます」と、文字通り尊敬するにこの上ない方であると讃える言葉なのです。
ですから、私達が何気なく使っているこの言葉が、挨拶を交す言葉として最もすばらしいことといえるのです。「今日は、貴方を尊敬します」と言う意味を感じながら社交辞令ではなしに本当に心から交していけば争い事など起こらないでしょう。これから大いに使い、まず身近な家庭から交しお互い尊敬し合ってはどうでしょうか。
さて、このようにすばらしい仏教用語が、生活の中でまだまだたくさん使われています。本日も先週に引き続き取り上げてみたいとおもいます。それは一般的に使われている「業(ごう)」についてです。
残念なことに、皆様が話されている「業」は、はなはだその意味が、女性蔑視に使われ、他人に対しては、同じくさげすんだり、ばかにしたりする言葉としてつかわれています。たとえば「女は業が深い」とか「あの人は因業じじい」などなど、およそ本来の意味とは全く正反対の言葉として、一般に通ってしまっています。
そもそも、「業」とは、インドの言葉で「カルマ」と言い「行為」あるいは「行動」、もっとやさしく言えば「その物、その人の行い」と言う意味なのです。
ですから女性ばかりではなしに、世の中の人々全てにあてはまる事柄であり、「業思想」と言う考え方を基に、全てが成り立っていると説かれています。即ち、「世の別は業によって生ずる」「業とはその所作なり」といえるのです。
さらにこの「業」は生前より来世まで続き、人間ばかりではなしに、私達の回りにある全ての物にも通じていて、そのもの自体は「業」の働きで存在していると説かれているのです。ちょっと専門的になりましたので、ここでは人間だけに当ててみたいと思います。
人間は生きて行く上に三つの活動を基本としています。
三つの活動とは、身で行い、口で食べたり飲んだり話しをしたり、心で感じたり考えたりしています。
この三つに業をつけて申しますと、「身業、口業、意業」となります。
「意」とは「心」のことですが、ようするに身口意の三業で生活をしています。もっと言えば、人生の営みは三業に支配されているのです。そして、その行為には必ず善悪が伴い、善い事をすれば、善い結果が表われ、悪い事をすれば必ず悪い結果が表われると、大変厳しい教えなのです。
ここで注意しなければならないのですが、これを他人事と受け止めてはならないようお願いする所です。何故ならこの業は自分にとって最も厳しい裁判官なのです。他人を裁く事は法律上できますが、自分を裁く事は自分でしかできないからです。たとえば、人が見ていないからいいやと何か悪い事をすれば自分に降りかかるし、嘘(うそ)を言ったり悪口を言ったりすれば必ず自分にも返ってきます。
そして少し極端かもしれませんが、あの人さえ居なければと、死んでしまえばいいのになど、心の中で考えたり想像する事でも、人を殺してしまうと言う「業」が罪として重なっていくのです。
ですから、この「業」は本当に厳しい事なのです。もちろんこの逆で、善い行いをすれば必ず自分自身の上にすばらしい結果が表われるのは当然でしょう。以上のように「業」は私の事であり、私がこの世の中で正しい行いをしていくようにコントロールする大切な役目を果たしているのです。
如何でしたか、今まで差別的な言葉として使っていましたが、実はそうではなかったと知らされた今、どうぞ自分の行動を基本的に改め身口意の三業を常に考えながら楽しい人生を過ごされます様念じ申し上げます。

23.運命

先週は「業」について少しお話しいたしましたが、今週も引き続きとして、行ないの善し悪しが、結果の善し悪しを決定しますのでその点について詳しく申し上げたいと思います。
それは善い行いをすれば、「善因楽果」と言われ、悪い行いをすれば「悪因苦果」などと説かれています。
例えば、現在自分の置かれている立場を考えてみた時、その境遇がすばらしいものならば、必ず生まれてくる前の行いも、この世に誕生してからの行ないも、きっと善い行ないをしていたでしょう。
もしその境遇が、全く反対で、辛かったり、苦しかったり、悲しかったりするものならば、それは悪い行ないをしてきた結果が現在に表われているのですと言えます。
さらに言えば、現在の行動如何によっては、自分自身のこれから先をどのようにでも変える事もできるとも教に説かれています。即ち、自分の在り方を決めていくのは、自分の行ないでしかないと言えるのです。
こうした考え方が、本来の仏教なのですが、私達の世の中は、まだまだ、人ごとであり、本当の意味を知らず、つい他人に対して「あきらめなさい」などのような言い回しをされるかたが多いのは残念な事です。 そして「因果応報」の教えの通り、人々にとっては大変厳しい意味なのですが、どうしても、他人に厳しさを強要し、自分に甘い言動、行動は、皆様も感じている所ではないでしょうか。むしろその反対が、本当の意味と知る事でしょう
さて、先程来からのお話で、お気付きになられましたように、自分に厳しい事が大切な生き方であり、できるだけ人には優しく接する事をお勧め致します。
このように現代社会は仏教のそれと少し意味合いが違うことからもう少し話しを進めてみたいと思います。一般的によく使われている「親の因果が子に報い」などの言葉が平然と交されているのは、やはり本当の意味を知らず誤って使われている典型的な言葉でしょう。
それでは、何が誤りかと申しますと、親の因は親だけの事柄であり、子供に影響するなど大変な誤解なのです。従って子供の因の、その子供のものであり、原因とその結果は個々の行為によるものです。
さらに、ここで使われている意味は、その子供に表われている結果が、多分に悪い方へ向いている時に使われているようです。ところが、その結果が、善い時には、案外親は関係ないと通っていますが、どうでしょうか。
そして、それに似た事柄で、「運命だと思って諦めなさい」と言う言葉です。これも同様に、結果を論ずる時使われるものとしては、誤った考え方であり大変無責任な心無い言葉なのです。皆様も、善い結果の時、「運命だから喜びなさい」と言いますか。まずそんな言葉は使わないと思います。
そもそも「運命」とは、前から決まっていた如くの言葉として使われていますが、本当はそうではありません。「運命」は「運ぶ命」と書きます。その通り、その人自身が、支配するもので、変化させて行く事ができるのです。ようするに、自分の命はどこから来たか、常に考え、大切に扱いさえすれば、必ず善い結果が生ずる事は、仏教そのもの考え方なのです。従いまして、親の因が子供に関わるという認識は誤りであり、もしあるとするならば、それは家庭に於ける躾であり、地域社会の環境によるものと考えられるでしょう。
如何でしたでしょうか。私達を取り巻く環境をもう一度見直し、その中の一人であるとの自覚から、言動を慎み、「業」も「運命」も、人事ではなくて、自分自身の問題であったと、気付かされた今、あなたの生活はきっと変わるでしょう。どうぞ正しい人生を歩まれます様念じ申しあげます。

27.葬式

この番組を4月から放送しまして早6ヶ月の月日が流れました。多くの方に聞いて戴きありがとうございます。その間、励ましのお電話や、FAXでのご質問を戴くなど、私にとってすばらしい勉強の場を与えて下さり、重ねてお礼を申し上げます。
さて、本日より時間帯が少し変わりました。今迄は朝8時40分からでしたが、これからは朝7時45分と変更されました。また4月からの放送されてきた内容を、再放送として、同じ水曜日午後1時30分から放送いたします。こちらの方も聞き逃した日があればそうぞお聞き下さい。尚本日は、はじめて聞かれる方の為に4月からの内容を少しづつお話ししたいと思います。
それは、宗教に対する考え方があまりにも幼稚であり、言い過ぎかもしれませんが、俺は無宗教であると豪語し、それが何か現代人らしくあるかの如く格好よしと決め、人生を送っている方々に、お話の一部でもいいですから理解して戴き、より善い自分の道を歩まれること願うお話です。
そこで、一番身近な問題を取り上げ進めてまいりましたが、死にまつわる俗習・風習・しきたり、又、誤った仏教用語の使われ方、日常会話で交される仏教用語の本当の意味などタブー視されていた分野に鋭くメスを入れ、本当の意味を説明し、何故変わって行ったか、またそれを現代人はどう改めて行けばよいか、具体的な例を用いお話し申し上げてきました。
例えば、ほとんどの方が、疑問に思わずおこなわれているしきたりに、「清め塩」というものがあります。
この行為などは、仏教の教えを無視し、亡くなられた方に対する最も失礼な行為である事を知っていたでしょうか。又誰が伝えてきてしまったのでしょうか。
元来「死」はどなたにも、避けたい事であり、私だけは、俺さけは死にたくないと思っているはずです。
しかし、毎日一体何人の人間が、この世を去って仏様になっているのでしょうか。交通事故、天災、病死、など私達の回りでは、今も死を向かえている方はいるのです。このような事実がある事を知っていながら、他人事と済ませ、日々暮らしているのです。それが一旦、自分自身の近くで、やれ通夜だ、葬式だと儀式をとり行わなければならない時となると、途端に俗習・風習・しきたりに惑わされ、葬儀の持つ意味を忘れてしまっているのが現代人と称している方々です。
亡くなられた方は、仏様になられたのです。そこには死因など全く問う必要もなければ、ただ事実だけが尊いものと受け止めなければなりません。もちろん、悲しみ、淋しさ、やるせなさ、と言う情けの思いも大切な事です。ですからしっかり涙する事の方がよろしいのではないでしょうか。
ところが、いつの頃からでしょう。「死」を「穢(けがれ)」たものと決め、平気で塩をまき、あるいは塩で手を洗い清めると言う行為をしています。全く理解に苦しむしきたりです。亡き方は仏様になり、これからは必ず見守って下さる方々になられたのに、どうして「きたない」「不浄」「けがれたもの」になってしまうのですか。となれば葬儀は穢た儀式ですか、と言いたくなります。そんなはずはありません。こうしたしきたりや、俗習だけで葬儀を行ない、本来の意味を正さないまま、「昔から」と言う言葉で逃げてきた現実を、正しい方向へ考え方を改める事が、私達の努めではないでしょうか。
以上のような問題を現代的な思考で、仏教の教えからずれることなく、因果の道理をわきまえ、自分自身の問題としてお話し申し上げていることです。どうぞこれからも、ご意見、ご質問などあればどうぞ尋ねて下さい。
本日は時間帯の変更をお知らせし、四月からの放送分を同水曜日午後一時半にて流しますのでこちらもお聞き戴きたいと願いお話し致しました。

28.生老病死

先週は、時間帯の変更を4月からの内容説明で終わりましたが、今週から又、仏教用語関連についてのお話を申し上げたいと思います。
さて、先々週は「縁起」についてのお話でした。
本日はその縁起の教えが全ての事柄に通ずるものであると放送しましたが、人間存在に問題をしぼり、お話ししていきたいと思います。
そこで、前にもお話ししました通り、お釈迦様は「人生は苦なり」と説かれました。楽しい事などは夢のようにはかないものであり、あっと言う間にきえていきます。今日は日曜日で楽しかった。明日は又仕事で働かなければならない、と今迄何回考えたことでしょう。
人間は生まれ、年を取り、時には病で床の伏し、やがて死んでいく。そんな当たり前の事に一喜一憂し、年を取りたくない、死にたくないが故に、それ相当の手当てをし、病にかかればできるだけの治療をする。決してするなと言うのではなく薬漬けになっている事をここで言っているのです。
しかし、年は取りたくなくとも老いて行く、病気にかかりたくなくともカゼをひき、ケガはする。死にたくないと思ってみた所でやがては死ぬ、ここに人間としての苦しみが始まりますと、お釈迦様は悟られました。当たり前と言えばその通りですが、何気なく生きている私達は本当に深くこの問題を考えた事があったでしょうか。ではこれ等の苦しみから、どうすれば解放されるか教えて下さるのが、仏教の教えなのです。
それは無知の為迷い、いつませもそのままの状態でありたいと、精神的にも物質的にも執着するからである。それが原因となり苦しむと教えています。つまり人間は欲望を捨て切れない所に、それぞれの苦しみを生み、その事から離れる心を持つ事ができないので、解放されないと言うのです。
もう少し分かりやすく言いますと、たとえば、年齢の問題を取り上げますが、誰でもが幼年時代を過ごし、その時代は早く大人になりたいと願っていました。とこらが青年期を過ぎる頃になりますと、情報を得て、その人間を取り巻く環境は、考え方や行動範囲により、かなり広くなり、身体的にも力が付き、大人としての社会性が生まれます。そしてその時代は最も充実した年齢である時期に気付き、その状態を保とうと努力もするでしょう。しかし年月と友に次第に衰える事も同じに知っていきますが認めようとしません。それが「執着」と言うのです。
更に、いつまでも何かにしがみ着き、行動や言動までも、不可解な人間になっていくのです。人間の欲はきりがありません。この世とお別れするまで欲を捨てる事はできません。それならば、欲を持ったまま生活をすれば良いのです。ただその欲を満たそうと、無理をするから様々な問題が起こるのです。「年甲斐もなく」と言う言葉を用いましたが、その通り、若い者には負けたくないと頑張って欲がらみの生活をしていたらどうなるかは皆様の方がご存じでしょう。ですから、現状をよく考えて、自分自身を省みる事が、苦しみから解放される道ですと、お示しくださっているのです。
如何でしたか、今一度、自分の心をのぞいてみては、欲と色気で真っ黒になっていませんか。本日のお話「老病死」からの解放は貴方自身の問題なのです。欲を満足させる為、神に祈ったり、仏様に願ったりせず、今日ある私に感謝して、自らを依り所として生き抜きましょう。これが仏様からのメッセージです。

29.愛別離苦

先週は「生老病死」の苦しみからどのようにして解放されるかお話し申し上げました。本日はこの四苦の他にまだ四つの苦しみがありますので、その事についてのお話を申し上げていきたいとおもいます。
まず人間が生活して行く上に、一人で生きてはいけません。皆様もご存じのはずです。物質面に於いても、人間関係に於いても、必ずと言っていい程、それぞれ恩恵を受け、生活しています。
その中でも色々な人々との出遇いがあり、影響を受ける人もあれば影響を与える立場なる事もあります。そして、別れがあり、手離さなければならない物があります。これを「愛別離苦」と言う苦しみとして説かれています。
それは、愛する人と別れなければならない悲しみや辛さが、やがて来るか、突然やって来るか、誰も出遇いの時は思っていませんが、必ずやってくる苦しみです。
ここで話している愛するとは、私達に関わる全ての縁であり、この世に生を受けてから出遇う人々と言う事です。
たとえば、最初の出遇いは、母親でしょう。それからお父さん、ようするに身内と言われる方々、そして地域社会の人々、学校へ行くよになれば先生や学友、社会人になれば先輩、上司、同僚とそれぞれに出遇いがあり、卒業と言う別れ、退社と言う別れなど、いつまでも一緒にと言う訳にはいかず、「遇うは別れの始めなり」と言う言葉が示す通り、まさしくこの世は必ず別れなければならない定めがあります。
そして私達は、今日別れても生きていれば、また遇えると言う希望的な別れも体験したりします。このような別れの中で最も辛いものは「死」と言う事実に直面した時でしょう。これ程辛く悲しい別れはありません。即ち、どのような状態であろうと、苦しみの根本は人生の中にあるのです。
さて、この苦しみから逃れる方法は、どのように解決できるか、又解放されるのでしょうか。
ここで少しお断りしておかなければなりませんが、人間、生きている間は決して悟る事はでしず、完全な解放は無いと、自覚してからの話です。もともと出遇えるはずではなかった人に、色々な縁が重なり、遇う事ができたと考えるのです。
私達は、どうも自分が選んでその人との出遇いがあると、自分の働きによってのものだと考える傾向があります。実は出遇いとは、全て人間が計り知る事のできない直接的原因や、間接的原因が重なり、結果として合う事ができた現象なのです。簡単に言えば「たまたま」と言う事なのです。ですから、別れも同様に考えればそれ程苦しむ事はなく、新しい出遇いを求めながら、苦しみを和らげる心を持つ事こそが解決できる道ではないでしょうか。
従いまして、結論は「人生は苦なり」の教えを胸に刻みいつもその連続の中に生かされている自分であると気付かせて戴く所に苦しみに立ち向かえる人生があるのです。
では、死別の場合はどうでしょうか。この問題は、実際にそう言う体験をした方でなくてはなかなか解決できませんが、肉親の死程、悲しいものはありません。あえてお話し申し上げるならば、亡くなられた方は、仏様になりました。と言う事は、この世の出遇いはなくても、いつまでも「あなた」の心の中に生き続ける方になられたのです。
ですから、日常生活に於ける全ての行動はいつも一緒です。即ちこの世の別れも決してありません。あなたが悲しめば共に悲しみ、喜べば共に喜んで下さいます。このように考えてみては如何でしょうか。事実から目を離さず力強く生きていく事が問題解決の早道と言えるでしょう。
如何でしたでしょうか。本日は「愛別離苦」と言う苦しみについてお話し致しました。来週この時間残りの苦しみについてお話し申し上げます。

30.怨憎会苦(おんぞうえく)

今週は苦しみについて、残りの三つをお話しいたします。
まず「怨憎会苦」と言うくるしみですが、それは怨んだり、憎んだりしている人とも会わなければならない苦しみと言う意味です。
先週、人間には出遇いがあると話を致しましたが、そこで出遇いには、好むと好まざると、人間としての交わりが始まります。それが、個であり、集団であれ、お互いに意見の違う人間同志の集合体が生まれます。この事を指して、生活の中での出遇から逃れる事ができない苦しみを「怨憎会苦」と説かれています。
たとえば私達の生活を振り返りますと、いつも自分の回りには人がいます。そしてその人と同じ様な考えで気が合えばいいのですが、少しでも意見が違う人であると、もう会いたくないと自己防衛をしてしまいます。あるいは、学校は好きだけれど、先生がいやだからとか、いじめっ子いるから登校しない等、楽しい会ではあるが、どうもあの方が出席するので止めておこうとしてしまう。
直接自分で決めることができる状況ではいいのですが、生活していく上にどうしてもその人間に会わなければならない時、自分の我がままは通らないのが世の中です。つまり、ここから苦しみが生まれ、どうしても逃れる事ができず、もがいてしまう私達なのです。
ではどうすてば解決できるかと申しますと、それは考える事なく会ってしまえばよいのです。会ってからお互いに問題を話し合えば解決の道が開かれるのです。それでも解決し合えないならば、縁が無かったのだと、新しい出遇を求めれば済む事です。あの人もこの人もと言う訳にいかないからこそ真の友と言える方を持つ事ができるのではないでしょうか。
さて次に「求不得苦(ぐふとっく)」ですが、この苦しみは、求めても得る事ができないと言う意味です。それは、人間は、欲の固まりであるが故に常に何かを求め、物質的、精神的区別はなく、生存本能に縛られている苦しみと説かれています。
では自分自身を考えてみましょう。いつも欲にかられ、その欲が些細なものであれば我慢できますが、そうでない所に苦しみが生じ、事によっては重大な事態を招く事もあります。そして精神的な欲も常に心の中で求め、相手の為にと自分勝手な思いをぶつけ、それが得られず苦しむ、その連続が私達の生活です。
では、この苦しみを解決するには、まず得る事ができない物と分かればその物からの執着を止めれば済む事です。当たり前の事の様ですが、人間は、なかなかこの心から離れる事ができません。ですから苦しむのです。ようするに、この身は苦しみと共存し求めても得られない世の中に存在しているのだと自覚する以外、解決の道はないのです。だからと言って決して努力を怠ってはいけません。正しい行ないで得た物は、どのような物でも素晴らしい事なのですから。
では最後の苦しみです。これは「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」と言いまして、大変専門的になりますので、少しだけ申し上げます。五蘊とは、人間の要素全ての精神や存在の事を意味します。即ち人間の肉体が盛にならばなる程、今迄の苦しみも増していくと言う意味です。つまり、健全な精神、肉体にはこれ等の苦しみが常に増大し衰えを感じて行くと共に、苦しみからの解放が近づくと説かれています。
如何でしたか。「生老病死」の四苦、それから「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」、と八つの苦しみをお話し委してきました。この苦しみをどう克服するかも、お分かり戴けたかとおもいます。
私達は、物事が完成したり上手に成し遂げた時思わず使う言葉に「四苦八苦したよ」と言います。私も今回のお話しには四苦八苦しました。皆様、人生は四苦八苦の連続です。この苦しみから喜びや楽しみを自ら見い出し、素晴らしい人生を歩まれますよう念じ申し上げます。