ネット法話⑥

55.布施行①

月も早3週目を向かえ、山間の桜もそろそろ散り始める頃です。さて、4月といいますと、私たちにとって最も大切な「日」があります。ご存知でしょうか。
それはお釈迦様がお生まれになった「月」なのです。そう、4月8日は仏教徒であるならば、この方の誕生日を花祭りとして盛大にお祝いしなければならないのです。にもかかわらず、世の人々は12月24日を国民的行事にしていますが、何の疑問も持たないのでしょうか。敬虔なクリスチャンの方々はきっと迷惑されていることでしょう。仏教に関わる僧侶の反省を促し、一考を投じさせていただきます。
前置きが長くなりましたが、楽しく生きるにはどのように考え、どうそれを行動に移せばよいかお話を進めてみたいと思います。
まず、私たちが生活を営んでいく上に、あるいは人生を歩んでいく上に、これからお話しをする6つの実践内容は、自分を取り巻く社会とともに、かなり厳しく受け止めなければならないと感じます。それは「六波羅蜜」といい、仏教の基本的な実践倫理として行われてきたものです。
ちょっと専門的な話になりますが、「六波羅蜜」とはサンスクリット語の「パーラミター」を漢字に翻訳したもので、意味は「到彼岸」ということです。
詳しくいいますと、こちら側の岸からむこう側の岸に渡るという意味があり、迷いの世界から悟りの世界へ到達するために実践をしていくという仏道修行なのです。
ちなみに、人間世界を「此岸」「この岸」といい、それに対して「彼岸」「かの岸」と言っています。つまり、6つの行いによって悟りの世界へ至る訳ですが、ここでは私たちが現代社会の一構成員であることの認識に立ち、日常生活を送るためのものとしてお話を進めます。そこで、まず第一に布施行についてです。
布施とは、サンスクリット語で「ダーナ」といい「見返りを求めない心」という意味です。要するに、何の報酬も求めない純粋な心で施しをするということなのです。
ところが、この言葉を聞くと、現代人にとっては、僧侶の読経代、あるいは宗教儀礼の勤めに対する謝礼としか言葉の意味を持っていないようであります。ですから、本当の意味を知らされてこなかったことに謝らなければならないと感じつつ、この布施行が身近な実践行として、すばらしい意味を持ち、生きていくための指針になりますので、詳しくお伝えしていきたいと思います。
では、次に「布施」の字を分解してみましょう。「布」を「施」すと書きます。当時インドでは、修行僧が「サーラ」という布をまとうため、一般の信者は布を差し出していました。その習慣が伝わり、文字通り中国の漢字に写され、日本に伝わりました。
この布施には、三種類ありまして、物質、金品的なものを施す「財施」、労働的な施しをする「身施」と精神的な施しをする「法施」とがあります。詳しく言いますと、身体や口、心で、相手に対し行為、言動、思考としてあらゆる対応の中に見返りを望まない実践が本当の布施行と説かれています。
いかがでしたでしょうか。私たちはこの意味を知った今、本当の布施ができるでしょうか。

56.布施行②

前回より始めました「布施行」の実践で、第一の布施について、さらに詳しくお話をすすめていきたいと思います。
私たちの日常生活で使われている「奉仕」という言葉と「布施」という言葉は同意語と考えていただくことを前置きしておきます。確かに辞書をひきますと、「奉仕とは、私の心を捨てて力を尽くす」とあります。布施の方といいますと、「僧侶などに金銭や品物を施し与える」とあります。ですから、社会的通念としては正しい考え方かもしれませんが、仏教的解釈をすると、これは大変な間違いであると言わざるを得ません。むしろ逆の意味と考えた方がよろしいかと思います。
従いまして、これから話をする中で、「奉仕」という使い方をするかもしれませんが、その言葉をすべて「布施」と置き換えて読んでいただくことをお願いいたします。以上、前置きはこれぐらいにいたしまして、ここでちょっと復習させていただきます。
布施とは、報酬を求めない心、あるいは見返りを望まない行為。また、喜んで捨てる、すなわち「喜捨」と説きます。
そこで私たちの社会に目を向けて見ますと、果たしてこのような思いで、行為、言動、思考をしているでしょうか。はなはだ疑問に思います。世の中でよく話される、相手の身になって考えるとか、相手のために何かをしてあげるといったとき、少なからず人間はいくらかの報酬を心のどこかで求めているのではないでしょうか。報酬とまで思わなくても、相手の反応を期待してはいませんか。心の中を覗いてみると、すべて何かを望んでしまっている自分に気づくはずです。これは本当の意味での布施とはいえません。
たとえば、行動を起こすとき、あるいはその行動中、誰かが見ていることを期待し、その行動が人のためになるとわかっていて、つい「ほめられたい」「礼を言うだろう」の心が働きます。
具体的に言いますと、社会奉仕団体と称して活動をしている人々は確かに立派で、すばらしい実践活動で、頭の下がる思いもしますが、相手方の人とは言わないまでも、受けている側の団体に対して、何らかの見返りを求めてはいませんか。そこには、必ず「してやった」という自負心とともに、対応がまずければもう二度と援助してやるものかの心が湧いてきます。対応とは、それが金品であったり、お礼の言葉なのです。そして、その行動の裏には、他の団体に負けてなるものか、こちらの方がもっとすばらしい活動をしているぞと、挙句の果てには、人間関係までおかしなものになってしまう場合もあります。
さらに、挨拶などもそうでしょう。朝夕、言葉を交わすとき、自分の方から先に声をかけ、当然返答があるだろうとの思いが、裏切られ、なんだあい奴、俺がせっかく声をかけたのに返事もできないのかと、やはり「かけてやった」の心が起こります。これが私たちの実情であり、次に話すこともよくある光景と感じられると思われます。
それは現代が車社会ということで表せます。最近ほとんどの方が車を運転しますが、その際お互いに譲り合いの精神で運行すれば何のトラブルも起きず、こんな便利なものはないはずです。ところが、つい優先順位を決めたり、正しいのは俺だ、私だと自分の心で決めています。たまに譲ってあげると気持ちがいいけど、その時相手が何の反応も示さないとあなたの心はどうなりますか。「せっかく譲ってやったのに失礼な奴だ」とか「運転マナーがなってない」とか「へたくそ」「バカヤロー」「運転する資格なし」と瞬時にこれだけのことが、心を駆け巡ります。
実はこれが人間の本性なのです。すなわち、本当の布施行を実践することは難しいのです。しかし、今自分の本性を気づかされたのですから、少し考え直してみてはいかがでしょう。
善しと思う事柄ならば、たとえ誰かが見ていようと見てまいと「させて戴く」心で実行に移しましょう。要するに、声掛けをしても返事を期待せず、明るく「こんにちは」と言えば自分が気持ちいいではありませんか。譲るという行為も反応があろうがなかろうが、おかまいなしです。自分自身にすがすがしさが残ればそれで充分なのです。平たく言えば、布施行とは一方通行でいいのです。決して見返りを望まず、報酬を求めず、ひたすら相手のために自分の持てる力を尽くすことと実践の道を歩むのです。
いかがでしたでしょうか。次回も布施についての話をさせていただきます。

57.布施行③

風薫る季節とはよく言ったものです。本当に緑が青々として、生きているという実感とともに、たいへん過ごしやしくなりました。みなさまはいかがお過ごしでしょうか。
前回よりお話し申し上げております、生きるための実践行も第2回を迎えました。今回は前回の布施行をさらに深く説き明かしていきたいと思います。
そこで布施行とは、見返りや報酬を望まないという本当の意味を知らされましたが、まだまだ僧侶に対する謝礼の意味と受け止められている方々の多いことに嘆かざるを得ません。
では、もともと布を施すとありますように、その行為が物を差し出すところから出発している考え方を心の問題として捉えているのが「無財の七施」という布施行です。
確かに、施しのできるお金や物があれば、そんな結構なことはありません。しかし、それでは何もない人は布施行ができないということになります。どうぞご安心ください。先ほど申し上げました「無財の七施」ということを知れば、立派な人生を歩んで行くことができ、むしろ私はこちらの布施行をお奨めいたしたいところです。
すなわち、これからみなさまに聞いていただく布施行は「雑宝蔵経」というお経の中に示されている教えであり、自分の身体全体でこの「行」を行うことができると説いています。 しかも、この「行」には、金品といったものは何もいりません。こんなすばらしい布施行があるのに、なぜ今まで誰も説き明かしていただけなかったのでしょう。不思議な思いです。
ここで、話をとある物語に移しますが、お許しください。それは、みなさまもご存知の「貧者の一灯」という言葉で示されます。
お釈迦様在世の頃、たいへん貧しい老婆がいました。その老婆の住む村に、お釈迦様が説法に来られることになり、村中歓迎の準備で大騒ぎ、彼女もぜひ直接に説法を聞きたいと思うのでした。そして、尊いお方が来られるときには、燈火供養というしきたりがあり、皆その供養をしなければなりません。ところが、彼女は貧しくて、十分な油を買うお金がありません。他の村人は競争するかのように、立派なしょく代や油うけを用意し、燈火供養ができるのです。それでも彼女はわずかなお金でお釈迦様のためにと少しの油を買って出かけたのでした。
お釈迦様は静かに説法を始めました。しばらくすると、突然強い風があたりを吹き払い、彼女が点火した火以外はことごとく消えてしまったのです。すると、お釈迦様は老婆の供養したこうこうと燃え続ける火の下で「仏への供養は、そのものの多さではなく、心が大切なのだ」と説かれたのです。その後老婆はたとえ貧しくても、心の豊かさを失わず生き抜いたということです。
では、ここで本題に戻ります。今の物語でもおわかりいただけたかと思いますが、要するに布施行とは心が大切であり、その行いに誠意があるかどうかなのです。
たくさん持っている人は、これぐらいでいいだろうと思うし、そうでない場合は見栄をはる心が働くだろうし、いずれにしても心の問題ととらえるならば、人間の本性がどうしても見え隠れしてしまいます。そこで、あってもなくてもできる布施行は「無財の七施」なのです。
その第一が「眼施」という布施です。
昔から「目は口ほどにものを言い」といった言葉が示す通り、人々はその人の目を見てあれこれと想像をめぐらします。
そこで、この目にどういう施しができるかと申しますと、人に接するとき、つり上がった目で会いますか、厳しく怖い目でお話をしますか、そうではありませんね。温かみのある目で、しかも澄んだ目は相手の心をどんなにか、安心させるではありませんか。そうなんです。目は人と話をするとき、目でものを言うぐらいに何も物質的なものを持たなくても、心をなごませる力があるのです、赤ちゃんと顔を合わせた時、試してみてください。目の動きだけで笑いもし、泣きもしますから。
大人の社会でも、目だけで心を通い合わすことができます。今はやりのアイコンタクトも、まさしく目で合図を送っているでしょう。
以上にように、私たちの目は布施行の第一にあげられるほど、その行いが重要な役割を果たしているのです。みなさまどうぞ目を大切に、生き生きとした目で人と接してみましょう。

58.布施行④

前回より「無財の七施」をお話ししていますが、今回は次の「顔施(げんせ)」についてお話しいたします。
ゲンとは顔という漢字ですが、前回の目の施しと似ているところが少しあります。そこでまず、自分の顔を思い浮かべてみてください。あるいは、鏡に写してみてください。この世にふたつと同じ顔があるでしょうか。世の中でたったひとつの顔なのです。確かに似ている顔はあるかもしれませんが、同じではありません。ちなみに、京都の三十三間堂に千一体の観音様がご安置されています。そのひとつひとつはすべて異なった顔をされているそうです。
ですから、このことからもおわかりのように、人類が現代的な顔になってから同じというものはなく、それぞれに形成された顔で一生過ごしていくわけです。
つまり、顔はその方の人生そのものを物語っているといっても過言ではないでしょう。さらに、常に変わらぬ心を持った方ならば、おだやかな顔でしょう。反対に、愚痴や後悔ばかりし、いつも心がすさんでいたならその顔は、いわゆる「険」のある顔となっていくでしょう。そして、この顔は常に表に出ていなければならず、その方の代表となる身体の一部なのです。
では、この顔がどのような施しができるかと申しますと、皆様ももうおわかりいただけたかと思います。そう、いつも「ほほえみ」を忘れてはならないことなのです。ただここで問題があります。たとえば、真剣に物事を論じ合っている時、ニヤニヤというか、ニタニタとしていると、とんでもないことになりかねません。
その時、その場所にあった顔をしなければならないことは、私達の社会で必要であることも心得ておかなければ「こいつバカにしているのか」と、どなられてしまいます。
ですから、顔というのは、目と同じように、その表情によってはその場の雰囲気をどうにでもする力を持っていることに気づいてください。それだけに、自分の顔に自身と責任を持ち、人々と接する時、ニコニコとされれば、安心感を与え、立派な布施行となるのです。
ただ、その時相手もほほえみ返すだろうと思ってはいけません。それでは見返りを望んでしまう心になりますので、あくまでもあなたの表情を保ってください。
次に「身施(しんせ)」です。これは身体で施すという意味があり、人と接する時、清潔で身苦しくない姿で対応するという、二通りの意味があります。ここでは前者の意味をお話しいたします。
まず、他人のために汗を流し、自分が働くことのできる力を相手のために提供することです、これはなかなか難しい布施行です。
なぜなら、働くという行為は、必ずそこに報酬として何らかの金品を望んでしまう心が起きるからです。あるいは、金品でなくとも、精神的な心を要求したり、俺は、私はと、あなたのためにたいへんな肉体労働をしたのだから、せめてこれぐらいのものはと、心のどこかで何かを望むでしょう。
そして、もし相手が何も反応や対応が示されないと、二度と無理してまであなたのためになんかと思ってしまうのです。これは後に「言施(ごんせ)」としてお話しすることですが、この時行為を受けた相手が一言「ありがとう」と言っていれば、何も問題は起こらないと思いますが、その一言を望みながら行動に出たり、私がやっているぞとこれみよがしにするのが私たちの本性ともいえるのです。
ですから、本当の身施をすることがいかに難しいことであるか、お気づきいただけるのではないでしょうか。
ここでお釈迦様前世のエピソードが収められているジャータカ物語をご紹介します。それは、釈尊が生前いろいろな動物の生を受け菩薩行をしているときの話です。
ある森の中に尊い教えを広める修行僧がきました。
僧はたいへん空腹で木の実を食べるのがやっとでした。
森の中の動物たちは哀れに思い、いろいろな食べ物を差し出してあげるのでした。
ところが、一匹のうさぎだけは何もありません。
私は布施行ができない、どうしたらいいのだろうと困ってしまうのです。
そして、悩みながら僧のところに行くのでした。
僧は皆が持ってきてくれた食べ物を、焚き火をしながらおいしく食べています。
うさぎはその前に出て「私はあなたに差し出す食べ物がありません。どうぞ私を食べてください」と言うと同時に、焚き火の中へ身を投じたのでした。
物語はこれで終わりますが、いかがでしたでしょうか。たいへん考えさせられるお話です。
私たちの社会はこのように他人に対して命まで捨てての布施行はできません。しかし、この気持ちだけは忘れてはならないと感じつつ、身施をしてみてはどうでしょうか。

59.布施行⑤

前回は願施と身施についてお話しいたしましたが、今回は第四の「言施」をお話しします。
その前に、少し復習となりますが、布施行とはただ人にものを与えればよいということではありません。また、他人のために何かをしてあげるということでもないのです。本当の布施行は次の三つの事柄を守って、はじめて「真の布施行」となります。
それはまず、布施をする前に、施しをしてやるぞというおごりの心があってはいけません。同じように、された側も相手に恩を感じさせてはいけないのです。このところはちょっと理解にしくいでしょうから、説明させていただきます。
そこで、された側が恩を感じてはいけないとは、お互いに布施行の心持があるならば、礼を言ったり言わなくても通じ合うものがあるということではないでしょうか。そこに、お互いの心や行為を大切にすることで理解しあえるということでしょう。なぜならば、布施行とは布施をすることができる自分の能力や気持ちに気づくことが大事なのです。すなわち、本当に布施をするためには、こだわりをなくし、施してやるから恩を感じるのではないのです。
布施とはすべてを捨てることと思えば、結構気楽になれるのではないでしょうか。捨てたものだから、投げ出してしまったものだから、後は相手がどうしようとおかまいなしの心を持つことができれば、それが本当に布施行といえるのです。
要するに、相手が恩を感じようと、感じまいと、一向にかまわないという結論です。三つ目は、盗んだ物を与えてはならない。これは、当たり前の話です。以上三つがそろって、はじめて本当の布施ができると説かれています。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、「言施」に移ります。言施とは、言葉で施す、あるいは優しい言葉掛けをする。また、人と接する時、きれいな言葉で話しをする。などなど、いろいろありますが、これも金品はいりません。生活をしていく中で実践できる布施行なのです。
ここで、私たちの社会に目を向けてみましょう。以前にも少しお話ししたことがあると思いますが、言施というにはほど遠い日常会話が交わされている事実に嘆かざるを得ません。最近の言葉の乱れは耳をふさぎたくなる思いです。若者の会話を聞く時、外国の方かと思うような錯覚にとらわれます。じっと聞いていると、確かに日本語で話をしています。しかし、内容もさることながら、何ときたない言葉使いでしょう。
最近出版された本で題名はわかりませんが、日本語の正しい使い方の本がテレビでも紹介されていました。善し悪しは別として、このような本が出版されることこそ、現代人の言葉の乱れを象徴し、同時に書かれた方に敬意を表したいところです。
そこで、何が問題かといえば、言葉はその国の文化なのです。唯一相手の心と心をつなぐ架け橋となり、人間相互の理解を深めるためには、これ以上のものはありません。外国の言葉を学べば、意思の疎通も深くはかれるでしょう。親しさも増すでしょう。ところが現代人は、この文化を自ら捨て去ろうとしています。
それで登場するのが、この言施です。今この「行」をすべての人々が実践すれば、必ず住みよい社会が戻ることは疑う余地のないところです。
たとえば、家庭にあって、お互いに声をかけあうことから始めてみましょう。朝は「おはよう」、学校へ、会社へ行く時は「いってきます」「いってらっしゃい」、帰ってきたら「ただいま」「おかえりなさい」、夜寝る時は「おやすみなさい」、たったこれだけの言葉です。それがなぜできないのでしょう。
このへんから家庭崩壊が始まるのではないですか。家族の皆が、それぞれの立場で会話を交わすなら楽しい光景が想像できます。
ですから、布施行の出発は家庭から、そして地域社会、学校、会社、また自分の所属する団体などの世界へと広がっていくことが望まれます。
それだけに、互いに優しい言葉掛けや、いたわりのある言葉を交わすことができれば、それはもう言施の実践となります。
ただ、その時やはり他の布施行と同じように、相手からの返礼を期待してはいけないでしょう。自分自身の気持ちが快くなることが大切です。もちろん、議論を闘わすときはこうはいきませんが、そのときにあっても、言葉の使い方や思いやりのある心で接するならば、これも立派な布施行といえるのです。いかがでしたでしょうか。
今回は言施という施しのお話でしたが、この文化を大切に、これからの生活に試してみることをお奨めいたします。

60.布施行⑥

前回に引き続き「無財の七施」です。今回は第五番目の「心施」からお話しいたします。心施とは、心を施すと、読んで字の如くでして、真心を持って人と接するとも説かれています。そこで両者とも大切な深い意味がありますので、詳しく説き明かしてみたいと思います。
まず、相手の境遇や受けている立場を、自分のこととして受け止め、相手がどうしてほしいのか、自分の考えていることと同じようにさせていただくことを察知するのが、心を施すという行為なのです、たとえば、今社会問題にまでなっている「いじめ」について考えたとき、これは人間誰しもがもっている差別をする心からはじまったと言えるでしょう。
では、なぜ差別があるのか。この世の中は、男性女性、弱い者強い者、お金をたくさん持っている人、あるいはそうではない者、頭が良いとか悪いとか、健勝者病弱者、などなど相対の世界であります。されにこれが、男性社会、女性社会に渡り、子供の世界にまで及んでいます。
まさに、差別をあおるような社会構造の中で、この相対をなくすことができない世の中だからこそ、心の中で、自分自身の奥底にひそんでいる差別心に気づき、わが身を恥じる気持ちと、常に同じ立場で接することが、いわゆる心を施す「心施」という布施行なのです。そして、やはり相手から何も強要しない態度が最も大切な施しとなるのです。
次に、第六の「床座施(しょうざぜ)」です。これは簡単に言えば、席を譲るという行為です。この内容については、世相を省みて、ちょっと物申したいところです。どういうことかと言いますと、相当前からの運動と思われますが、電車やバスの中に「シルバーシート」という特別な席があります。なぜこのような席を設けなければならないのか、たいへん疑問を感じます。
それは、このような印をしておかないと「お年寄り優先席」ですと、わざわざ知らしめなければならない現実があるからなのです。どうして、このような世の中になってしまったのでしょうか。そんなもの設けようと設けまいと、お年寄りに席を譲る行為など、当たり前のことではありませんか。そんな当たり前の心が失われて、わが身さえよければという風潮に怒りを覚えます。
そこでもう一度この当たり前の心取り戻していただくよう「床座施」というすばらしい布施行を提唱し、同時に仏教は当たり前のことに気づき、それを実践することと申し上げたいところです。そしてこれもやはり、譲ってやったぞという心や態度は慎みたいものです。
次に、最後の布施行「房舎施(ぼうしゃせ)」に移ります。さて、この布施とはどのような行為なのでしょう。それは「軒下を貸してあげる」という意味と、もうひとつ、いつでも家の中や外が整頓されていて、誰が訪問しても気持ちよく迎えることができ、訪ねてこられた方も、心が落ち着き、平安な心になることができる施しです。
皆様もご存知の通り、名刹といわれている寺院の境内は、きれいに掃除が行き届き、訪れる方の心を洗うかのようです。また、本堂内は静寂の中にご本尊様が微笑みを浮かべ、私たちを見守ってくださっています。まさしくこの「房舎施」を常に心がけているといえるでしょう。しかし、最近の寺院は、参拝料とか拝観料などのお金がかかり、納めなければ入寺できない現実に苦言を呈したいところです。
ここで、私たちの住まいに目を移してみましょう。はずかしい限りです。本当に玄関へ入っただけで、そのお宅の内容が丸見えになった気分になります。これでは、訪ねてこられた方もいやになります。名刹とまではいかなくても、整理整頓をし、お客様をお迎えしたいものです。
以上「無罪の七施」ということでお話を進めてきましたが、いかがだったでしょうか。
金品がなくても、これだけすばらしい施しができるのです。今まで、物やお金で人の心を動かしていた私たちでした。現代社会にあって、今こそ、この布施行を思い出す時ではないでしょうか。そして皆様も、これならば積極的にできると思われるものがありましたら、今すぐに実践してみてはどうでしょうか。
「ほほえみを施す顔施」
「優しい言葉掛けをする言施」
「人のために汗を流す身施」
いずれも今できる施しです。
さぁ、行動開始!!