ネット法話⑧

71.少論多聞(永生きの秘訣シリーズ)

毎日暑い日が続きますが、力強くこの暑さを乗り切ってください。
さて、本日は第六段「少論多聞」という永生きの秘訣です。この秘訣はやはり漢字を思い起こして戴けばご理解できますように、「議論」を少なく、「聞く事」を多くすると文字通りの意味になります。
ではどのような事かと申しますと「少論」は、あれこれと論じ合う前に、じっくり自分の考えをまとめ、十人いれば十通りの考え方がある事を知り、その一つ一つに耳を傾けるだけの態度が望まれるという事です。
そうなりますと、一人一人がまとめの意見を出しますので少ない議論となり時間も節約できる訳です。しかしこれがなかなか難しい事でして、私達の回りには、人の話を聞かず、自分の意見だけを押し通す方がかなり多い事はご存知の通りです。
また、討論会などがあれば、最初から最後まで話をされている方もいます。又議論を闘すような場合、必ずと言っていい程相手より、あるいはそこに参加している人々より、私の考え方が優れており、皆は劣っていると、自分を固持する方なども時折います。こうなりますと少論どころか、多論になってしまい、最もきらわれるタイプの人間として見られてしまいます。そうあってはならないからこそ、「多聞」の語句が大切になるのです。
これは読んで字の如く、多くを聞くとありますから、ただひたすら聞くだけが、その人間の価値を高めるのに意味をもつのです。
しかしここで問題は決して話してはならないと言う事ではありません。意見を求められた時まで、何も返事が出来ないのは困りものです。その時は、しっかり自分の考えを述べ、他の人々が、なる程と同意できるだけの内容を持って話すべきでしょう。
そこで仏教の教えに照らしたお話を申し上げましょう。
ある日の出来事です。一人の人間が矢にささり、瀕死の状態になっていました。そこへ数人の人が通りかかり、回りをかこんでから、その状況を見るなり、口々に何かを言い出したのです。
「この矢はどこから飛んできたのだろう」
「この矢は竹か木か」
「毒矢かもしれない」 「いや毒矢ならもう死んでいるだろう」
などと勝手な推論ばかりしていて誰も矢を抜こうとせず、助けると言うような行動は誰もしない。そのうち矢のささった人間は容態が悪くなり亡くなりました。というお話があります。
もしその中の誰か一人でもすぐに医者に診せよう、病院へ運ぼうと言う意見の者がいたら、そのけが人はきっと命を取り止めた事でしょう。
ちょっと大げさな話になりましたが、時と場合によっては、議論のばかばかしさに気付く事も大切なものです。多かれ少なかれ、私達の生活の中にも、これに似た話はあると思います。
要するに、議論を重ね、その議論が良い方向へ導かれるものであれば大いに結構ですが、今の話のように、命にかかわるような場合では議論の余地なしと、確固たる決意が必要になります。
では次に「多聞」についてはどうでしょうか。
皆様はカウンセリングというお仕事をご存知でしょうか。これは話を聞いて、適切な助言をする。あるいは良き相談相手になるとされています。
実は先生方は「唯ひたすら聞く事」とおっしゃっていました。さらに「私の所へ来られた方の心を開くのに三年や五年の歳月がかかる方は数人いますよ」との事でした。このような場合は専門家でない私達には想像をはるかに越えた、努力と根気が必要と思われますが、身近な問題として、考えたならば、本当に聞く事の大切さがわかると思います。
たとえば私の所属する奉仕団体で、青少年の活動地がいつも問題になり、それぞれの委員さん達と論議を重ねるはめになるのです。
当然この夏の活動地候補があがり、例年の通りという意見の方や、たまには遠距離もいいのではという事になりその目的地にはまだ誰も行ったことがなかったのです。
ですから、人のウワサや資料を頼りに、あれこれと意見が飛び交い、結局は下見に行き現地の方の情報を聞くと言う結論になったのです。
そして、その任を仰せつかった私が行く事になり、活動目的に添った所か、経済的にどうなのか、医療体制は万全かなど聞いて来たのです。
帰る途中で思う事はまったく「多聞」の大切さを感じたのでした。と同時に議論をする無意味さと時間の浪費を知らされた事です。このように私達の身近には常に起こる問題解決の道に「少論多聞」の重要性を知っておくとよろしいかと思います。
如何でしたでしょうか。これから聞いて聞いて聞き抜く姿勢で日々をお送り下さい。

72.少孤多朋(永生きの秘訣シリーズ)

夏は今真只中、お盆のお参りは如何でしたか、ご先祖様にお遇いできたでしょうか。
郷里を離れていと方々は久し振りに帰ってきて、三島の水を一杯飲み、おいしい空気を吸って懐かしい時を過された事でしょう。来年も元気で帰ってきて下さい。
さて本日はいよいよ最後の第七章「少孤多朋」と言う秘訣です。この語句は少し漢字の説明が必要になりますので、まずはそこから話を進めてみたいと思います。
「少孤」の孤は孤独とか孤立すると言う時に使われる漢字で、意味としては、ひとりもの、ひとりぼっちという事です。これに少ないと言う字が付きますので、文字通りひとりぽっちでいることはできるだけ避けましょうという意味になります。
次の「多朋」ですが、この朋の字は月と言う漢字を二つ並べた字です。よく使われる熟語は「同朋」とか「朋友」と言った具合に使われ、意味は、友達、友人、仲間と言う解釈ができます。ですから、「多朋」は読んで字の如く、多い仲間となり、ここでは友人を多く持つことを奨めているという考えが適しているとおもいます。そこで更にこの語句の意味を深く掘り下げていきましょう。
私達は決して一人で生きてはいけません。今更乍らという思いはありますが、私の回りを見渡しますと、父や母がいて、兄弟がいてと、希望的な見方からそうでもない家庭環境まで含め、必ず誰かがいます。 そして、学校、会社、地域社会へと関係をたどれば、本当にたくさんの人間関係を保っていかなければなりません。
そんな時私は一人で生きているなどと言ってられるでしょうか。あるいは孤独を愛し、俺は俺の道を行くと我儘を通す事ができるでしょうか。人間と言うのは、生きて行く以上、必ず他人との関わりがなければ生きて行けないのです。特に現代社会にあっては、人と人の心が複雑にからみ合い、善し悪しは別にしても心と心の関わりから逃れる事はできないのです。
このような考え方から説かれている人について存在価値を説明する事がよく話されています。
それは、「人」と言う字を説明する時、一本では字になりません。もう一本加えて、はじめて人と言う漢字になります。あるいはもう一本が寄り添って正しい漢字になりますと言った具合に分析し、助け合って生きていく事と解説しています。
ところで、世の中に人はたくさんいますが、はたして「人間」と言える人はいるでしょうか。ですからもう一歩進んだ考え方をしますと、本当の人とは、人と人との間柄を理解できる者と言っても過言ではない気がします。
人と間と言う二つの漢字が使われて人間と言う意味を知るべきなのです。たとえば、親と子の間柄、女性と男性の間柄、夫と妻、兄と弟、教師と生徒、私とあなたなど、それぞれの間柄を役務と考え、その責任や義務を果してこそ本当の人間と言えるのではないでしょうか。
最近の風潮は、この役務を忘れ、間柄をわきまえずに関係を保とうとするので、おかしな世の中になりつつあると思うのは、私ばかりでしょうか。
要するに、一人の人間として個々ではありますが、暮らしの中では決して孤立しては生きられないのです。人間同士のつながりが社会を構成し、お互いに認め合いながら人生を歩む事が望まれるのです。
従いまして、「多朋」と言う意味も、これでお解り戴けたかと思いますが、できるだけ多くの友を求め、友情と言う関係を作り乍ら、あるいは先輩とか後輩と言った人間関係も、生きていく上には大切な要素となるでしょう。
ところが、現代社会は、先程の考え方がうすれ、横の関係ばかりを尊重し、縦社会が陰を落している事実に気付かないでいます。今こそ上の方を敬い、下の者を育むという基本的な関係を見直し、自分自身の役務を再確認する事が重要な生き方と問われなければならないのです。そこに本日の「少孤多朋」の秘訣が私達の生きる道として示されているのです。
如何でしたでしょうか。これからは、多くの友を求め、その縁を大切にしながら、同朋の意味を深く受け止め、励んで戴きたいと思います。そして、共に生き、共に喜び、共に涙できる本当の人間関係を保って行くことのできる人生でありたいものです。
以上で永生きの秘訣シリーズを終りますが、次回から新しいシリーズに入りたいと思います。どうぞお楽しみに。